北条貞顕
ほうじょうさだあき
生涯
生い立ち
北条氏の一門で北条義時の五男(実際は六男)・実泰を祖とする金沢流北条氏の4代目当主。北条実時の孫で北条顕時の六男とされる。母は側室の遠藤為俊の娘または正室の安達千代野とも。
貞顕が7歳の時、8代執権・北条時宗が没しその翌年に発生した霜月騒動で千代野の父・安達泰盛が平頼綱に滅ぼされたた父・顕時も連座し失脚、その後頼綱が専横を奮ったため金沢流の立場は著しく低下した。貞顕は17歳にてようやく出仕、また最初に補任されたのも左衛門尉・東二条院蔵人と、庶子が任ぜられるような官職だった。
その後、頼綱は平禅門の乱で9代執権・北条貞時に誅殺され貞時による親政が本格化。顕時も復権し貞顕も従五位下・左近将監に叙任。ここでやっと他家の嫡子並みの地位を獲得するに至る。その後顕時は胃を患い正安3年(1301年)にて逝去、貞顕はその器量を見込んだ貞時の意向により、兄たちを差し置いて嫡子に抜擢され、家督相続を認められた。
六波羅探題南方就任
翌正安4年(1302年)に六波羅探題南方に就任、以降延慶元年(1308年)まで同職を務めあげた。特に嘉元元年(1303年)以降は事実上の執権探題として京都での政務を司り、その傍ら多くの公家や僧侶とも交友を持つなど文化的な活動にも積極的であった。
この時期既に、官僚たちによる実務体制の整備により、六波羅探題の職務がかつてのような激務でなくなっていたという側面もあるものの、この時期に『百錬抄』や『法曹類林』など、朝廷の歴史・法律にまつわる数々の書物を貞顕が書写・収集した事は、祖父・北条実時(金沢実時)が設立した金沢文庫のさらなる充実にも繋がった。
他方で、金沢文庫に残されていた史料などから、この時期の金沢文庫が荒廃状態にあり、貞顕による文献の書写・収集も文庫再建に向けた取り組みの一環ではないか、とする見解も呈されている。
連署就任
六波羅探題を辞任し鎌倉へ戻った直後の延慶2年(1309年)には、貞時嫡男の北条高時の元服式に際し御剣役を務め、さらに引付頭人3番(後に2番に昇進)、寄合衆を兼任するなど、幕政の中枢にも関与。後に六波羅探題北方を経て、北条基時(第13代執権)の治世下では連署に就任、執権職が高時に移ってからも引き続きこれを補佐した。
この時期は既に執権職ですら形骸化して久しく、幕政は内管領の長崎円喜や得宗家外戚の安達時顕らによって主導されていたが、貞顕は先例や理運を重んじつつその両者の間を取り持つ事で、高時政権を大過なく支えたと評されている。
十日間の執権
その高時が正中3年(1326年)に病を得て執権職を退くと、貞顕もこれに従って政務からの引退・出家を望んだ。しかしこれが認められる事はなかった上、高時の後継を巡る得宗家内部の対立に巻き込まれる形で、当事者の片方である内管領・長崎高資の擁立により第15代執権に就任する事となった。
内実としては北条邦時(高時嫡男)成長までの中継ぎとはいえ、執権職への就任自体は貞顕にとって喜ばしいものであったようで、就任初日から早速評定に出席するなど精力的な活動を見せた・・・のだが、後継者争いにおける邦時の対抗馬であった北条泰家(高時の弟)や、その後ろ盾であった安達時顕らはこの人事を不服とし、出家に及ぶ事で抗議の意を示した。これにより窮地に立たされた貞顕もまた、就任からわずか10日での執権職の辞任と出家を余儀なくされたのである(嘉暦の騒動)。