概要
北条邦時とは、鎌倉時代末期に実在した北条一族の一人である。
生誕 正中2年11月22日(1325年12月27日)
死没 元弘3年/正慶2年5月29日(1333年7月11日)
改名 万寿・万寿丸(幼名)→邦時
別名 相模太郎(通称)若御前(幼少時の呼称)
幕府 鎌倉幕府
父母 父:北条高時
母:常葉前(御内人・五大院宗繁の妹)
兄弟 邦時、時行
建武2年(1335年)に中先代の乱を起こし、その後も南朝方の武将として北朝方と戦いつづけた北条時行は異母弟である。
父・高時は執権の要職にあるころから、実権は内管領・長崎円喜・高資親子らに握られており、その反動として酒と猿楽、闘犬におぼれた人物として有名であった。
長崎親子の専横は執権の人事にも及び、正中2年(1325年)に高時が出家すると、後継を狙う高時の弟・泰家を廃して邦時を推し、それまでの中継ぎとして北条貞顕次いで赤橋守時を後任とした。
元徳3年(1331年)12月、7歳で元服、将軍・守邦親王から「邦」の諱を与えられ「邦時」を名乗る。
元弘3年/正慶2年(1333年)、各地で鎌倉幕府打倒の兵があがるなか、5月22日、朝廷方に味方する新田義貞に攻められて鎌倉は陥落、父・高時をはじめとする北条一族、長崎円喜・高資親子ら御内人は次々に自刃し幕府は滅亡する。
その直前、高時は五大院宗繁に邦時を預けて鎌倉を脱出させるが、宗繁は新田義貞の武将・船田義昌に邦時の居場所を密告、邦時は相模川において新田軍に囚われ、5月29日朝、鎌倉において処刑された。享年9歳。