事件の経過
1326(正中3)年、14代執権北条高時が病のため、執権職を辞して出家する。
御内人(得宗家被官)で内管領に代々就任してきた長崎(平)氏は、同じ御内人五大院宗繁の女(側室)と高時の子息である北条邦時を後継として擁立した。(尚、この側室は『執権殿御愛物』と記される程、高時から寵愛を受けていた様である)
一方、北条得宗家と代々外戚関係にあった安達氏は、高時の生母大方殿(覚海円城)を筆頭に長崎氏の方針に反発し、高時の同母弟である北条泰家を後継者として推戴した。(因みに高時の正室も安達氏である)
同年3月、五大院氏と縁戚関係にあった北条氏金沢流の北条貞顕が執権に就任すると、此に憤慨した大方殿らは泰家を出家させる。同時期、安達氏(主に大方殿)らが貞顕の命を狙っているという暗殺の風聞が流れる。
これを苦にした貞顕は就任後僅か10日で執権職を辞した。
4月24日には、中継ぎとして引付衆頭人の赤橋守時が執権に就任した(連署|北条維貞)。
この騒動前後より、得宗後継の血縁を御内人が占めるようになり、北条氏の血統が得宗被官に吸収されていったとする見方も出来よう。
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出典
岡田清一『北条得宗家の興亡』新人物往来社
細川重男編『鎌倉将軍・執権・連署列伝』p170「金沢貞顕」吉川弘文館
桃崎有一朗「鎌倉末期の得宗家儀礼に見る長崎円喜・安達時顕政権の苦境」日本史研究