概説
嘉元2年(1304年)生まれ-元弘3年(1333年)没。鎌倉幕府第14代執権。最後の得宗。父は第9代執権・得宗の北条貞時、同母弟に北条泰家がいる。正室は安達時顕の娘。側室の二位局との間に、南朝方と同盟して幕府復興戦を挑んだ次男・北条時行がいる。嫡男は長男北条邦時(邦は守邦親王からの偏諱)であるが、鎌倉滅亡の際御内人の裏切りによって殺害されている。
生涯
応長元年(1311年)に父・貞時が亡くなったことで得宗を継承。11代宗宣、12代煕時、13代基時の3人の中継ぎ執権を経て正和5年(1316年)に執権に就任。外戚の秋田城介・安達時顕と内管領・長崎高綱(長崎円喜)の補佐により政務を運営した。嘉暦元年(1326年)、病により出家し3月には一門の長老・金沢貞顕が、4月には赤橋守時(足利高氏(尊氏)の正室・赤橋登子の兄)が執権に就任したが、北条家得宗として実権を握り続けた。(事実、後年、後醍醐天皇が発した綸旨には「幕府執権・赤橋流・北条守時を討て」とは書かれておらず、「得宗・北条高時を討て」と書かれていたらしい)
元弘3年(1333年)、後醍醐天皇が倒幕の綸旨が発せられたことにより、護良親王、楠木正成らによる反乱が起こり、幕府は鎮圧のため足利高氏と北条高家を大将として追討軍を京都に派遣した。しかし、途中で高家が討死、高氏が討幕軍に寝返るなどして天皇方に西国の拠点・六波羅探題を攻め滅ぼされ、事態は悪化していく。高時は尊氏追討の為、実弟・北条泰家率いる軍勢を上洛させることに決め、兵糧調達のために関東各地に天役(幕府の税のこと)供出の命令を下す。(『太平記』第10巻2)
そんな最中に新田義貞が税額が法外すぎるとして徴税の使者を斬り、下野国で反乱を起こす。僅か150騎の貧乏武士の反乱に過ぎなかったはずが、天皇の綸旨を受け取っているという噂を聞いた各地の武士たちが参加して7千騎、足利尊氏の嫡子千寿王が参加したのちには20万騎の大軍に膨れ上がったという(『太平記』第10巻3)。幕府軍はその大部分が天皇方追討の為関西に出征しており、鎌倉に残る軍勢は多くなかった。予想以上の大軍となった義貞勢には敵わず小手指原の合戦に敗れた後、北条泰家が率いる20万騎の精鋭を送って分倍河原の決戦に臨みいったんは義貞を破る。しかし、直後に泰家は義貞の巧みな奇襲に敗れ、形勢を見守っていた関東各地の御家人は続々と義貞について、鎌倉は包囲される。数日の最後の戦闘の後、高時は新田義貞に鎌倉を攻め落とされ、東勝寺にて一族と共に31歳の若さで自刃、鎌倉幕府は滅亡した。
人物
鎌倉、室町、江戸の三大幕府の滅亡時に自害した最高実力者は彼だけであり、後の足利義昭や徳川慶喜(後述)の滅亡後の扱いに比べると不遇と言わざるを得ない。
鎌倉幕府を滅ぼしたこともあり、暗君や暴君のイメージで語られることが多いが、実際の高時の人物像はあまり伝わっておらず、暗君や暴君としているのも、勝者側視点で書かれた「太平記」などの記述やそれらを元にしたものが大半で、高時のマイナス評価に関しては割り引いて考える必要はある。ただし、それ以外の書物で伝わる人物像でも、有能であると書かれておらず、足利義昭や徳川慶喜のように「滅亡はさせたけど、無能ではなかった」というような扱いを受けていないのも事実である。小林一岳『元寇と南北朝の動乱』のように、むしろ安達時顕や長崎円喜らの重臣が実権を奪っていたので政治的な主導権を握れず、次に述べるように趣味に興じるしかなかったのではないかという解釈もある。もしこの解釈が成り立つのであれば、ときの幕政は外戚の御家人に過ぎない安達時顕と北条氏の家臣筆頭にしか過ぎない長崎円喜が実権を握り、将軍はおろか執権さえも傀儡ということになる。だが、父・貞時の時の実権を握った権力者もまた、外戚の御家人・安達泰盛と北条氏の家臣筆頭・平頼綱であったわけで、このときは安達泰盛と平頼綱が抗争を起こして頼綱が泰盛を滅ぼし、長じた貞時が「平禅門の乱」で頼綱を滅ぼしてようやく実権を握ることに成功している。高時の時代も同じ地位を引き継いだ外戚と権臣が共存している図式だともいえるが、このときは円喜と時顕は縁戚を結んで抗争を起こしておらず、将軍・守邦親王や執権・北条高時、歴代の連署らの権力はより限定的なものとならざるをえなかった。かくして、高時は憂さ晴らしに闘犬と田楽に興じるしかなかったとも思える。
なお、太平記第十巻の鎌倉攻防戦「鎌倉中合戦の事」「相模入道自害の事」は、新田義貞の武功を讃えることよりも、鎌倉の陥落が迫り滅亡を迎えた平家(北条氏のこと、北条氏は平家の一族でもある)と鎌倉武士の捨て身の勇戦を描くことに力点を置いている。最後の執権・赤橋守時、重臣・長崎円喜の一族、後に高時の遺児・北条時行を奉じて鎌倉幕府復活の勝負に出る諏訪盛高等々、それぞれに鎌倉武士の名に恥じぬ凄まじい活躍を見せる。史実が太平記の記述と同じであるならば、高時にも彼の為に戦う多くの武士が従っていたと言えるのであろう。また勝者の側にも、守時の妹である登子とその嫡男・足利義詮(守時の甥)のように北条氏の勇名を伝える縁者がいたと考えることは可能だ。
高時が元々病弱で、闘犬や猿楽、田楽にふけった、という話は有名であり、複数の史料で共通の人物像として書かれている。太平記では、田楽に関しては後述の妖霊星の伝説が書かれ、闘犬については「高時の闘犬熱により、諸国の守護や名士に至るまで散財して犬を買い養い鎌倉には四、五千匹もの闘犬がひしめいた」「道を犬が往けば旅人も土下座し、頻繁な闘犬の開催はまるで戦場で犬が死体を争うごときであった」等と何れも鎌倉幕府の退廃の証として描かれている。建武政権時代の『二条河原の落書』でも「犬田楽ハ関東ノ ホロフル物ト云ナカラ(闘犬と田楽が鎌倉幕府を滅ぼしたのだと言われている)」とあるので、幕府を滅ぼした原因としての共通理解は、太平記に限らず存在したようだ。
高時にまつわる伝説
弁才天の予言
北条高時の代に鎌倉幕府が滅びたことについては、こんな伝説がある。
鎌倉幕府が出来たころ、北条家の初代であった北条時政は、弁才天を祀る江ノ島(今の神奈川県の江ノ島のこと)に参詣して籠り、連日連夜子孫の繁栄を祈り続けた。
二十一日目の夜、時政の元に赤き袴に柳裏(表は白、裏は白みを帯びた青の襲)の衣を着た美しい女性が現れてこう告げた。「そなたの前世は箱根の社僧であり、六十六部の法華経を書いて日本全国六十六国の霊地に奉納したという善行があった。そなたの子孫は長く日本の主となるが、その振る舞いが道を外れることがあれば、七代を過ぎることはできないであろう。不審に思うならば、諸国の霊地に人を使わしなさい」去りゆく女官は大蛇となって海に消え、後には三枚の大きな鱗が残った。
時政は弁才天のお告げによって願いがかなったと喜び、この三枚の鱗を北条氏の紋(北条氏の三鱗の紋のこと)とした。また、諸国の法華経奉納を調べると、確かに全て同じ名で「大法師時政」なる奉納があったという。九代目の高時の代になって道理を外れた振る舞いが多かったのは、この予言が成就しようとしているのであろう(『太平記』第五巻・弁才天影向の事)。
もちろん、あくまでも伝説であるが、中世・近世の太平記流布に伴って、鎌倉幕府の滅亡はこのように解釈されていた面もあったらしい。
妖霊星
同じく太平記は、高時の田楽好みについて、このような伝説も引用している。
その頃、田楽が大変流行し、身分の貴賤を問わずだれもが夢中になった。高時もまた高名な田楽一座を招いて日々楽しんでいた。
そんなある夜、宴を開いていた高時は、興に任せて自らも踊り出した。素人の酔狂での舞ではあったが、いつの間にか各地の高名な田楽の座人が宴に集い、揃って歌い舞いだす。その見事さはこの世のものとも思われなかった。やがて拍子を変えて囃す声を聴いてみると「天王寺のやようれぼしを見ばや」等と聞こえてきた。宴の間の傍を通りかかったある官女が、興味を惹かれて宴を覗く。
すると田楽の座人たちは皆人ではなく、鳶の如くに嘴の曲がった者、頭は山伏のようだが翼が生えた者など、異形の怪物どもが人に化けていたのであった。官女は重臣の安達時顕に人を走らせて告げた。時顕が現場に急行すると宴では高時が一人酔い潰れているばかりで、周囲の畳には鳥獣の足跡が残っていた。
後に刑部少輔仲範という儒者がこれを聞き、「『やようれぼし』とは妖霊星のことだろう。天下が乱れようとする時に妖霊星という悪しき星が下って災いをなすという。天王寺は聖徳太子が『未来記』という予言書を収めた地であり、この地の辺りに天下の動乱が起こるのであろう。国王(天皇)は徳を治め、武家(幕府)は仁政を施して、妖(あやかし)を打ち払うべきである」と予言した。後年に楠木正成が天王寺に挙兵して幕府を討ち、『未来記』を読んで後醍醐天皇の隠岐からの帰還を知った(この伝説も太平記にある)ことからすれば、さすがの博識による予言である(『太平記』第五巻・相模入道田楽を好む事)。
創作作品での北条高時
吉川英治『私本太平記』
単純な暗君説を排し、工芸や芸能を振興して鎌倉を京都以上の文化都市にしようとする指導者像を描いた。武士たちには政治的な謀略には疎く執権の器ではない、それ故奉じるには都合が良い等と陰口を叩かれている。高時の恩恵を受けた職人や芸能の民たちには絶大な人気がある。
大河ドラマ『太平記』
吉川太平記を原作とするNHKの大河ドラマ『太平記』でも前半の主要人物として登場。片岡鶴太郎による怪演ぶりで知られる。今日の高時イメージはこれによる影響も小さくない。闘犬や田楽に熱中しているが、政治的な洞察力も決して凡人ではない。鎌倉と京都の平穏な共存を願っていた。
大河ドラマ『北条時宗』
彼の祖父にあたり、わずか34年の生涯を駆け抜けていった時宗が主役であるこのドラマにも1話だけ登場している。高時が生まれる前に時宗が没しているため当然ながら本編には登場してないが、第21話(この回は時宗が執権に就任した最初の回である)プレタイトルで祖母・覚山尼のいる東慶寺を訪問し、幕府14代執権に就任したことを報告している。この場面から、語り部を務める覚山尼のいる時代が時宗の死後32年が経過した正和5年(1316年)であることがわかる。ちなみに彼を演じたのは少年時代の時宗を演じた浅利陽介(ナレーションでも「幼き頃の時宗に生き写し」と語られている)。このドラマにおいて覚山尼は「亡きおじいさまに負けぬよう、初陣の気概を持って政務にはげんでもらいたい」と孫・高時を諭している。
なお、史実において覚山尼はこの10年前に死去していることも追記しておく。
漫画『逃げ上手の若君』
彼の息子である北条時行が主役の本作にも登場。顔に生気が全く無く生きているのか死んでいるのか分からない有様のお飾りの暗君であり、実権も側近たちに握られている。
足利尊氏の反乱によって幕府を滅亡させられた事で諏訪頼重に息子を託して自刃した。
自らが凡庸な暗君である事は自覚していた様であり、息子達には「父の分まで強くなって駆け巡れ」という言葉を残していた。
関連項目
足利義昭 室町幕府最後の将軍。京を追放後も各地を流転、最後は一万石の大名として豊臣秀吉のお伽衆となるが、征夷大将軍への野心を燃やす秀吉を猶子にすることは拒んでいる。京追放後の15年後に死去。
徳川慶喜 江戸幕府最後の将軍。水戸へ謹慎後、静岡で隠居生活。最終的には公爵待遇を受け、明治維新後も半世紀近く生き、明治を越え大正2年(1913年)に死去。