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北条基時

ほうじょうもととき

北条基時とは鎌倉幕府の第13代執権である。
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生没年 弘安9(1286)年~正慶2/元弘3(1333)年5月22日

生涯

第7代連署を務めた北条業時を祖とする普恩寺流の一人。普恩寺流は業時の父で、第2代連署を務めた北条重時が興した極楽寺流の分家に当たる。
業時は祖父でもあり、父は評定衆・引付衆を務めた北条時兼

正安3(1301)年に六波羅探題北方になったのを皮切りに、評定衆、引付衆などを務め、正和4(1315)年に第12代執権を務めていた北条煕時が病で退任したことで、第13代執権となった。
しかし実権は得宗家内管領の長崎円喜が握っており、翌5年に得宗家当主の北条高時に執権職を譲ることになった。以後基時は公職に就くことはなく、事実上の隠居状態となる。

元弘の乱

18年後の正慶2/元弘3(1333)年、後醍醐天皇による倒幕戦争・元弘の乱によって追い込まれた鎌倉幕府は、鎌倉に迫る新田義貞軍迎撃の為鎌倉の入り口たる切通の守りを固めていた。
そのうちの化粧坂の守備を担当したのが基時であった。劣勢ながらも5日間にわたって化粧坂を守り抜いたものの、稲村ケ崎から新田軍が鎌倉に侵入したことで背後をつかれ全滅、基時も自害して果てた。享年48。この2週間前に六波羅探題北方を務めていた嫡男の仲時も戦死しており、
基時の辞世の句「待てしばし、死出の山辺の、旅の道、同く越て、浮世語らん」は仲時のことを思っての歌として知られている。

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北条氏 鎌倉幕府 執権

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