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北条基時

ほうじょうもととき

北条基時/普恩寺基時とは、鎌倉期の武将・政治家。鎌倉幕府の第13代執権を務めるも、幕政を主導する機会の巡らぬまま短期間で辞任。後に元弘の乱において鎌倉防衛に当たり、激戦の末に自害した。(1286年-1333年)

生没:弘安9年(1286年) - 正慶2年/元弘3年5月22日(1333年7月4日)

別名:信忍(法名)

官位:正五位下、相模守


生涯編集

北条氏の庶家の一つで、普恩寺流(第7代連署北条業時を祖とする)の当主・北条時兼の子として生まれる。六波羅探題北方を務めた北条仲時は子に当たる。


正安3年(1301年)に六波羅探題北方に就任、2年余りの在京を経て鎌倉への帰還後は評定衆、引付衆などを歴任。正和4年(1315年)には第12代執権・北条煕時の退任を受け、第13代執権となった。またその際、熙時在任時に置かれる事のなかった連署に金沢貞顕が就任している。

先代、そして先々代の宗宣と同様に、この当時の執権職は既に形骸化して久しく、幕政の実権は内管領(得宗家執事)の長崎高資らに抑えられていた。また基時の執権就任はあくまで得宗家当主・北条高時成長までの繋ぎという意味合いが強く、翌正和5年(1316年)に入ると高時の執権に向けた動きも本格化。同年7月に高時に執権職を譲ってからは出家の身となり、その後鎌倉幕府滅亡まで公職に就く事もなく、政治の表舞台より退く格好となった。


やがて後醍醐天皇を中心に倒幕運動が起こる(元弘の乱)と、反幕府勢力の討伐のため畿内に出陣、正慶2年/元弘3年(1333年)に新田義貞を中心とした軍勢が挙兵し鎌倉へ迫ると、基時率いる軍勢は鎌倉の入口の一つ・化粧坂の守備に当たった。

義貞、それに脇屋義助ら新田勢の主力による猛攻に晒されながらも、基時勢は5日間にわたって化粧坂を守り通した。この頑強な抵抗を前にして、新田勢は化粧坂からの攻略を断念し、極楽寺坂(稲村ヶ崎)からの突破を敢行。これにより鎌倉へと侵入した新田勢に背後を突かれ、基時は奮戦の末にわずかな部下たちと共に自害して果てた。享年48。


「待てしばし、死出の山辺の、旅の道、同く越て、浮世語らん」


基時の遺したこの辞世の句は、鎌倉陥落に先駆ける事2週間前、六波羅より落ち延びる途上で近江にて敢え無い最期を遂げた、嫡男・仲時の事を思って詠まれたものとして知られている。


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北条氏 鎌倉幕府 執権

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