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北条義時

ほうじょうよしとき

鎌倉幕府・第2代執権。(メイン画像の黒い直垂の人物)
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概要

生没年 長寛元年(1163年)~元仁元年(1224年)6月13日
 父に鎌倉幕府・初代執権・北条時政、姉に源頼朝の正室・北条政子、弟に初代連署となる北条(大仏)時房、子に第3代執権・北条泰時、北条(名越)朝時、六波羅探題北方、連署など要職を務める北条重時、第7代執権・北条政村、金沢流北条氏の祖となる北条実泰、北条有時らがいる。

源頼朝と平家滅亡

 治承元年(1177年)、この頃、姉・政子と平治の乱に敗れて伊豆に流されていた源義朝の三男・頼朝が駆け落ち、父・時政は渋々ふたりの結婚を認める。
 治承4年(1180年)、京において後白河法皇の第三皇子・以仁王源頼政とともに反平家の兵をあげるも敗北し以仁王・源頼政は自刃、しかし、以仁王の発した令旨が叔父・源行家の手によって頼朝のもとにもたらされると、頼朝も時政・義時父子ら坂東武者を率いて挙兵、山木兼隆を討ち取るも石橋山の戦いに敗れて九死に一生を得る。一方、頼朝の従弟・源義仲も美濃で挙兵、徐々に勢力を強めつつあった。
 以後、頼朝は鎌倉を拠点に定めて勢力の回復を図り、頼朝の異母弟・範頼義経、東国の有力武士・梶原景時和田義盛畠山重忠武田信義らが旗下に参集する。
 養和元年(1182年)、平清盛が病死すると、勢いを得た義仲軍は倶利伽羅峠で平維盛率いる大軍を破る。寿永2年(1183年)、義仲が上洛を果たすと、敗れた平家は幼帝・安徳天皇を奉じて京の都から西国へと落ち延びていった。
 しかし、上洛を果たした義仲は兵糧の徴収を勝手に行い、次の皇位に以仁王の遺児・北陸宮を推すなど暴虐を極めて後白河院の不興を買い、このことに据えかねた後白河院は鎌倉にある頼朝に義仲追討の命を下した。これに応じた頼朝は大将に範頼・義経兄弟、軍監に梶原景時を配して派遣、義経・範頼軍は近江の粟津の戦いでこれを打ち破った。
 義経・範頼軍はすぐに平家追討に出陣し、文治元年(1185年)4月、平家は壇ノ浦の戦いで滅亡した。
 

鎌倉幕府樹立と頼朝の死

 この間、頼朝は新たなる武家政権の樹立に尽力していた。頼朝は平家打倒の最大の功労者である義経と対立し、義経をを追い詰めるために守護・地頭を各地に置くことを朝廷に認めさせた。文治5年(1189年)、奥州藤原氏の当主・藤原泰衡に圧力をかけて義経を自刃させると恭順の意を示している藤原泰衡に大軍を派遣、百年の栄華を誇っていた奥州藤原氏を滅亡させた。
 建久元年(1190年)、頼朝は上洛し、後白河院に対面、権大納言・右近衛大将に任じられたがすぐに辞任、建久3年(1192年)、後白河院の死後に征夷大将軍に任じられたが、名目上のものにすぎず、これ以後、鎌倉を本拠に政務をとり、正治元年(1199年)、53歳で没した。

2代将軍・源頼家

 頼朝の死後、嫡男・頼家が18歳で家督を継いだが、将軍職に就くのはそれから3年たってからであった。頼家は父・頼朝が重用した梶原景時ら少数の側近を引き続き重用し、乳母及び妻の実家である比企氏にも深く接近する。蹴鞠に熱中し、所領をめぐる争いにも絵図の真ん中に線を引いて終わりというような乱暴な処理をする、ある御家人の妾を奪ったばかりか、その男を殺害しようとし、命がけで立ちはだかった母に制止されるなどの乱行を行うなど、わずか3ヶ月で頼家は大組織の長としては失格の烙印を押された。
 このことに業をにやした母方の祖父・北条時政を中心とする有力御家人は頼家から訴訟の採決権を剥奪し、時政・義時ら13人の宿老の合議によって幕政を運営することを決めてしまう。
 これ以後も頼家の側近は粛清されていく。正治2年(1201年)、梶原景時の一族は他の御家人の反発を受けて殺害され、建仁3年(1203年)、頼家が急の病いにかかるとそれを理由に北条氏に挑発された比企能員は反乱を企て、結果、比企一族は北条氏に滅ぼされてしまい、頼家は死を公表されて伊豆修善寺に幽閉されたあげく、翌元久元年(1204年)、暗殺されてしまう。

3代将軍・源実朝

 建仁3年(1203年)、危篤状態になった兄・頼家に代わって実朝は源氏の家督を継ぎ、征夷大将軍に叙されたが、実朝は政治にあまり関心がなく、当世随一の歌人・藤原定家に師事し、歌集『金槐和歌集』を残すなど京風の文化に執心した文化人として後世知られている。(ただし、現在の研究では実朝は必ずしも政治に無関心ではなく、義時の提案を却下するなど、ある程度政治にかかわっていたのではないかといわれている)
 このことを憂いた祖父・北条時政は、翌元久元年(1204年)、実朝を廃し新たなる人物を将軍に据えようとしたが、母・政子、叔父・義時はこの計画に反対、時政は失脚し隠居に追い込まれた。
 建保元年(1213年)、北条氏と幕府の軍事機関の長である侍所別当・和田義盛との対立が表面化、鎌倉を巻き込む軍事衝突が起き義盛は敗死した。(和田合戦)
 建保4年(1216年)、実朝は世をはかなんで宋に渡る計画を立てるも失敗、承久元年(1219年)、鶴岡八幡宮において猶子にしていた甥・公暁(頼家の子)に殺害された。享年28歳。

承久の乱、そして突然の死

 実朝死後、幕府は新たな将軍として天皇の皇子を候補として鎌倉に下向させることを望んだが、朝廷におけるときの最高権力者・後鳥羽上皇はこれを拒否、業をにやした幕府は執権・北条義時の弟・時房に一千騎を与えて朝廷に圧力をかけて折衝を重ねた結果、承久2年(1220年)、わずか2歳の三寅(後の4代将軍・九条頼経)を鎌倉に迎え入れた。
 後鳥羽院は荘園をめぐる交渉や地頭職改補を幕府に要求するが決裂、承久3年(1221年)5月14日、14ヶ国の軍兵を集め、翌15日、「北条義時追討の宣旨・院宣」を発して京都守護・伊賀光季を襲撃、この報を受けた幕府は、5月19日、北条政子の演説と大江広元の献策を得て鎌倉より出陣、嫡男・泰時、弟・時房率いる軍勢はただちに朝廷軍を破り、首謀者である後鳥羽上皇は隠岐に、その子である土御門上皇は土佐、順徳上皇は佐渡に配流されることとなった。これ以後、幕府の朝廷に対する優位性は確定することとなり、幕府は治安の維持と朝廷を監視するために六波羅に探題を置くこととなり、初代北方に嫡男・泰時、南方に弟・時房をその職に就けた。
 
 元仁元年(1224年)6月13日、義時は謎の死を遂げる。毒殺ではないかともいわれている。

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鎌倉時代 鎌倉幕府 源頼朝 北条政子 北条時房 北条泰時

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