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北条義時

ほうじょうよしとき

平安時代末期~鎌倉時代前期の武将・政治家。鎌倉幕府の第2代執権を務め、姉の北条政子らと共に執権政治の基礎を固めた。(1163年-1224年)
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解説編集

鎌倉幕府を開いた源頼朝の側近として仕え、頼朝没後の政権闘争を経て実質的な最高指導者にまで上り詰めた。また日本史上最強の「朝敵」であり、朝廷と直接武力対決してこれを制圧、朝敵の汚名を実力で雪いだ上、三上皇を流刑の厳罰に処し、当時の天皇を自らの圧力でその地位から引きずりおろした唯一の皇族、公家でない人物である。


生涯編集

青年期編集

 長寛元年(1163年)に伊豆の豪族北条時政と、同じく伊豆の豪族であった伊東祐親の娘(異説あり)との間に次男として誕生。

 義時が15、6の頃であった治承元年(1177年)、姉の北条政子は当時平治の乱に敗れ伊豆の蛭が小島に流されていた源頼朝と駆け落ちに及び、やがてその妻となっていた。その頼朝が治承4年(1180年)に平家打倒を期して挙兵に及ぶと、義時も父や長兄・北条宗時らと共にこれに従うが、石橋山での敗北で頼朝軍は散り散りとなり、時政や義時と別行動をとった宗時も途中で討たれている。

 時政・義時父子は頼朝らと後に安房にて合流、その後再び頼朝の命を受けて甲斐に赴き、当地に勢力を持つ武田信義甲斐源氏一族の助力を得る事に成功。頼朝からもこれに対する褒賞を受けている。

この頃には、祖父・伊東祐親の家臣で、富士川の戦いで戦死した江間次郎の旧領を頼朝から賜って「江間小四郎」と称していた。

 翌養和元年(1181年)、鎌倉に本拠を置き勢力を固めつつあった頼朝は、その寝所を警護する11名の側近を選抜、義時もその一人として列せられた。この「家子」とも呼ばれた11名の側近は、源氏一門と一般の御家人の中間として位置付けられ、中でも義時はその筆頭格として扱われたという。その後も亀の前事件で北条一族が頼朝の仕打ちに激怒して伊豆へ引き退く中、義時は引き続き鎌倉に残るなど、頼朝に忠実に仕えていく事となる。

 武将としては平氏追討や、奥州合戦など様々な戦いに従軍、筑前・葦屋浦での戦いでは武功も立てている。またこれらの戦いが終結を見た建久元年(1190年)には頼朝が上洛、その際にも右近衛大将拝賀の随兵の一人として選ばれている。とはいえ、この頃まではまま幕府内においてそこまで目立った存在という訳でもなく、本格的に頭角を現すのは頼朝が没してからの事となる。

 

政権を巡る暗闘編集

 正治元年(1199年)、頼朝の死に伴ってその嫡男・源頼家が後継者となると、新将軍を補佐するという名目(事実上は頼家の親裁を制止するため)で「十三人の合議制」と呼ばれる政治機関が発足。義時も若年ながらその一人として参加するが、この頃から鎌倉幕府内では有力な御家人同士の権力闘争が繰り広げられるようになる。

 まず血祭りに上げられたのが、前将軍の治世より頼朝の腹心として重きをなして来た梶原景時であった。景時はその立場と冷徹な性格もあって、御家人たちの恨みを買いまくっていた。景時は、義時と同じく家子扱いを受けていた結城朝光に叛意ありと将軍に讒言したが、御家人達からはあべこべに糾弾状を突き付けられ失脚、のみならず族滅にまで追い込まれた。

 さらに妻・若狭局や乳母の実家である比企氏を後ろ盾とする将軍・頼家と、頼家の親族でありながら影響力を失いつつあった北条氏との間で対立が深まる中、急病により頼家が危篤に陥ったのをきっかけに、北条氏は比企能員を始め若狭局や一幡(頼家と若狭局の子)もろとも比企氏一族を悉く誅殺、遂には頼家をも「鎌倉殿」の座から追いやるに至っている(比企の乱)。これら有力御家人の排除は、主に北条氏が主体となって行われており、義時もそれに深く関与していたとされる。


 ところがその北条氏内部でもまた、深刻な内部対立が生じる事となる。これは武蔵の支配権を巡り、執権として権勢を振るっていた父・時政と、同国の惣検校職を務めており、秩父平氏の頭領である畠山重忠の関係がにわかに悪化した事に端を発するもので、時政は利害関係の一致から、信濃源氏平賀義信の四男で頼朝の猶子かつ時政の娘婿に当たる武蔵守平賀朝雅と結託して重忠・重保父子の排斥を画策し、彼らを謀反の廉で討伐に及ぼうとしたのである。

義時と弟の北条時房は父の命に反対するも押し切られ、断腸の思いで二俣川の戦いで畠山一党を討つも、御家人たちの声望厚かった重忠を死に追いやったこの一件を機に、時政と牧の方に対する御家人達への反感が一気に噴出。義時もまた姉・政子と結託し、「時政と牧の方が3代将軍となった実朝を廃し、平賀朝雅をその跡目につけようとしている」との噂が流れた事を理由に、時政の自邸・名越邸にあった実朝を密かに自分達の元へと迎え入れ、身の安全を確保する事で父を失脚させるに至っている。

 この一件は同時に、名越邸を追い出され出家のうえ伊豆に強制隠退させられた時政に代わり、義時が幕政の第一人者としてこれを主導するきっかけともなった。従来は時政が失脚した直後に2代目執権の座についたと見られていたが、近年では発給文書の署名の有無などを根拠に、それよりも数年後の承元3年(1209年)頃に執権となったとする見解も呈されている。


 とはいえ、義時が幕政を主導するようになった事で御家人達への姿勢も柔軟になったとはいえ、執権政治の確立を図るための有力御家人達への抑圧はその後も続いた。泉親衡という素性不明の武士が義時の暗殺を計画し、その計画に幕府草創期からの重鎮である和田義盛の一族が一枚噛んでいたことが判明すると、和田家殲滅の計画を練り、甥の胤長の屋敷を和田家とは血縁関係のない別の御家人に渡す(従来では、御家人の土地はその親族に下げ渡すことが慣例となっていた)などの和田家を挑発する行動を起こし、これに怒った和田家の一族が挙兵するよう仕向けた。この挙兵を「鎌倉に対する謀反」とデッチ上げて、自らが和田家を滅亡させる大義名分を作り上げたのである。

義盛ら一族郎党が和田合戦で討たれた後は、かつて義盛が任されていた侍所別当の地位を義時が兼任するようにもなるなど、その政治姿勢は次第に独裁的な色彩を帯びていくようになった。


実朝暗殺と承久の乱編集

 さて、3代将軍・実朝には長ずるに至ってなお子がなく(一説には男色の気があったとされる)、幕府もその後継者として後鳥羽上皇の親王を下向させる事を打診していたが、その最中の承久元年(1219年)正月、亡き頼家の次男・公暁によって実朝が暗殺されるという事態が発生した。この一件についても、当初実朝の太刀持ちを予定していた義時が、急遽腹痛であるという理由で源仲章と交替し、結果として難を逃れたという事もあり、事後の収拾策なども含めて義時が一枚噛んでいたという見解もあるが、現在までに出ている実朝暗殺に係わる諸説についてはいずれも未だ確実と言い難い事に留意されたい。

 実朝の横死は幕府内に深刻な動揺を与えるのみならず、それまでも微妙であった幕府と朝廷との関係にも俄かに亀裂を生じさせるきっかけともなった。前述した皇族将軍下向の折衝において、後鳥羽院がこれを拒否すると共に自身の寵姫の所領の地頭廃止を要求するや、義時もこの要求を突っぱねる一方で弟・時房率いる軍勢を京へ遣わして交渉に当たらせたが、最終的には皇族将軍を断念し頼朝の遠い縁戚に当たる九条道家の子・三寅(のちの九条頼経)を、4代将軍として迎える事で一応の決着を見る事となる。また三寅はこの時まだ1歳余りとあまりに幼く、結果として姉・政子が「尼将軍」としてその後見を務め、義時が執権としてこれを補佐する形で、執権政治のさらなる強化へと繋がった。


 この一連の流れを経て朝幕間の緊張がさらに高まる中、後鳥羽院は承久3年(1221年)春に「流鏑馬揃え」の名目で諸国より兵を集め軍備を整えると、5月15日には「北条義時追討の宣旨・院宣」を諸国の有力御家人達に発し、遂に義時排除に乗り出した。承久の乱が勃発する。

 先に京都守護として遣わされていた義時の義兄伊賀光季は京方の襲撃に遭い討死、さらに親幕派とみなされた公家達も粛清された。難を逃れた光季の下人よりこの報を受けた幕府は、いち早く警戒を強化すると共に対策を協議。当初は箱根・足柄にて京方を迎え撃つという慎重論も出たものの、幕府の重鎮である大江広元らは積極的な出撃を主張、政子も直ちにこれを裁決し、東海道、東山道、北陸道の三方向から京に向けて軍勢が進発する事となった。

 また後鳥羽院挙兵の報せに鎌倉武士たちが大いに動揺する中、政子が彼等に対して幕府草創以来の頼朝の恩顧を説き、動揺を鎮めると共に団結を促した。これらの迅速な動きが功を奏し、幕府軍は最終的に19万にも及ぶ大軍へと膨れ上がり、義時追討の綸旨が発せられて一月後の6月15日には木曽川・宇治川に築かれていた京方の防衛線を突破、遂には京都を制圧するに至ったのである。

 乱を主導した後鳥羽院と順徳院がそれぞれ隠岐と佐渡へ流されたのを筆頭に、この乱を主導していた者たちはことごとく断罪された。土御門院も父・後鳥羽院や弟・順徳院と違い乱に関与していなかったが、自ら望んで阿波へ配流された。こうして、義時は朝敵の汚名を受けていたにも拘らずそれを自力でそそぐだけでなく、朝幕関係をも完全にひっくり返す事にも成功した。そしてこれ以後、幕府の朝廷に対する優位性は確定することとなり、幕府は治安の維持と朝廷を監視するために六波羅に探題を設置、初代北方に嫡男・泰時、南方に弟・時房をその職に就けている。


 こうして執権政治が盤石なものとなり、義時の地位も安泰かに思われた中、元仁元年6月13日(1224年7月1日)に義時は62歳で突然の死を遂げる。歴史書『吾妻鏡』ではその死因を衝心脚気によるものと記しているが、それ以外にも風聞として毒殺説や近習による刺殺説も流れたとされ、現在でもその死については定かでない部分が多い。

とはいえ、現代医学で義時の死因を推測すれば、鎌倉時代は現代と違って栄養状態が決して良いとは言えず、脚気が死因になることも珍しくはないという(のちのちの徳川家茂も同様、平将門も脚気を発症し落馬し敗戦したことがある)。

 義時の死後、執権の座は嫡男・泰時が継承し、頼朝時代から続く専制体制に代わって集団指導制(合議制)による政治姿勢を打ち出すと共に、その基本となる「御成敗式目」を制定。これにより幕府もようやくしばしの安定期を迎える事となった。


系譜編集

父:北条時政…鎌倉幕府初代執権。編集

兄弟姉妹たち編集

  • 北条政子…姉。源頼朝の正室。
  • 北条宗時…兄。石橋山の戦いで戦死。
  • 北条(大仏)時房…弟。初代連署。大仏流と佐介流の祖。
  • 北条政範…弟。母が継室の牧の方だったため、宗時死後の事実上の嫡子として扱われた。公卿・坊門信清の娘を源実朝の正妻とするため上洛するが、京に到着して2日後にわずか16歳で病死。その不自然な死から、毒殺説もある。2022年度NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では平賀朝雅による毒殺説が採用された。
  • 阿波局…阿野全成源義朝の七男)の妻。
  • 北条時子…足利義兼(足利義康の次男)の妻

長男:北条泰時…第3代執権

次男:北条(名越)朝時…名越流の祖。光時時章教時らの父。余談だが子孫に名古屋山三郎がいる。娘の子に足利家氏と渋川義顕がおり、足利一族の有力庶家となり存続した。

三男:北条(極楽寺)重時…極楽寺流の祖。赤橋流の祖である第6代執権・長時の父。

四男:北条有時。伊具流の祖。

五男:北条政村…第7代執権。政村流の祖。

六男:北条実泰…金沢流の祖。実時の父。


正室は比企朝宗の娘(比企能員の姪)で幕府に仕える女官であった姫の前で、彼女との間に朝時と重時を儲けているが、比企の乱の前後に離別している。

その後継室として伊賀朝光の娘(二階堂行政の孫娘)を迎え、政村と実泰を儲けている。

泰時は最初の側室である阿波局(上記の阿野全成室とは別人)との間に、有時は常陸伊佐氏の娘との間にそれぞれ儲けた子で、共に扱いとしては庶子に当たる。


姫の前所生の次男・朝時と三男・重時は明暗が分かれる。祖父である時政の名越邸を継承した事や、比企氏の血も引いていた事などから、叔父の北条政範が没した直後には父の義時や兄の泰時を差し置いて、政範に代わる北条氏の家督継承者と目された事もあった、とする見解も提示されている。とはいえ、これを主導していたと見られる時政が失脚したのに加え、朝時自身も艶書事件を起こし実朝の勘気を被ったあげく、一時義時から勘当されている(和田合戦の折に罪を許され、北条家に戻ってはいるが)事などで、この構想は立ち消えになったとされる。

三男・重時は父・義時、異母兄・泰時と関係がよく、24歳の若さで四代将軍・九条頼経付きの小侍所別当に就任、六波羅探題北方を経て五代執権・北条時頼の岳父として連署に就任、幕政に重きをなしている。

一方で、継室の伊賀の方所生でありながら、あくまでも庶子の一人として扱われていた政村であるが、義時が没した直後には政村をその後継者に立てようとする陰謀が企てられたとされる(伊賀氏の変)。もっとも、この一件については実際に跡を継いだ泰時が否定している事などもあり、実際にそうした企てがあったかどうかについてはさらなる検討の余地があることに留意されたい。


後世の評価編集

足利尊氏は「建武式目」で義時を「近代の師」とし、北畠親房は『神皇正統記』で人望に背かない人物と評するなど、存命当時や近い時代の人々の間ではほとんどが肯定的な評価だった。しかし、時代が下ると泰時や曾孫の時頼と違い悪化していく。

儒教道徳が普及した江戸時代での義時評は主君であったはずの源氏の将軍家を滅ぼしたり、将軍を傀儡にして幕府の実権を握り、実父の時政も追放した不忠不義の策謀家とみなされ、新井白石からは前漢を滅ぼして帝位簒奪した新の王莽にも例えられた。

明治時代になると皇国史観の観点から承久の乱で朝廷に楯突き、三上皇を配流にした朝敵で稀代の大逆臣として、評価は地に落ちていた。戦後においても『草燃える』等の影響もあり権謀家や策謀家という評価がやはり付いて回った。しかも、同時代において北条家と言えば姉・政子の方が有名で、義時はその陰に隠れがちとなり存在感が薄い印象となっていた。その歴史観が見直され再評価されたのは21世紀に入ってからである。


物語の主人公キャラクターのテンプレでは、「自分から行動して運命に臨んで未来を切り開く」タイプと、「自分の意思と無関係に周りの物事に巻き込まれて困難に臨む」タイプと大きく分かれるが、義時の場合はリアルで後者のタイプだった。

源氏や北条家の覇道に巻き込まれて振り回され、一族や東国武士団の調整役として奔走し、自身や身内、組織を守らんと戦い続けた結果、幕府の最高実力者になってしまった生涯と言える。執権として非情な決断も下すことも当然あったが、野心家としての側面は薄い。

私にはここしかない

2022年放送の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、こうした近年の再評価を踏まえて、上記のような周囲の人間たちに振り回される苦労人的な描写が多くなっており、(少なくとも物語開始当初の時点では)腹黒い野心家としては描かれていない。一族や坂東武者を守るために奮闘し、さらには仕えていた頼朝に影響される形で次第に黒い一面を身に付けていき、自身もそれを認め、武士の世を治めるには必要なこととわかりつつも苦悩するというこれまでにないリアルな人物像が描かれていくことになる。


NHK大河ドラマでの演者編集


このうち、小栗主演の『鎌倉殿の13人』にはかつて義時を演じた西田と松平も出演し、それぞれ後白河法皇平清盛を演じている。


関連タグ編集

鎌倉時代 鎌倉幕府 源頼朝 北条政子 北条時房 北条泰時 得宗

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