概要
北条義時の義兄として幕府政治で重用される。1219年(承久1)、京都守護に任ぜられ、畿内近国の治安維持、朝廷・幕府間の連絡役を務める。同年7月の大内守護源頼茂(みなもとのよりもち)の乱では、後鳥羽上皇の勅命を受け、藤原秀康と共に討伐に当たっている。
最期
承久の乱
1221年(承久3)5月14日、後鳥羽上皇は鎌倉征伐の兵力として多くの京武者が結集した(彼らの多くは城南宮での流鏑馬神事を名目に集められたため、本当の事情を知らない者が殆どとも考えられる)。光季も、同じく京都守護の毛利親広と共に、参加を命じられた。親広は応じたが、光季は関東申次の西園寺公経から真実を聞かされており、義時らとの縁戚関係もあったのか、3度の誘いを全て仮病で断ったため幕府方と見做され、翌15日、官軍に討伐された。この伊賀光季討伐が承久の乱の開戦とされる。
守護所を攻撃された光季は奮戦の後、息子光綱を介錯したのち、自害した。『承久記』の物語では、息子光綱が焼身自殺を図り炎上する屋敷に駆け込もうとしたが、恐怖のため成し遂げられなかった。光季は息子を殺した後、その遺体を炎に投げ入れ、自身もその上に飛び重なって果てたという。
幕府指導者の多くが鎌倉に留まって遠方指揮を執っていたこともあり、光季は幕府最高幹部の中で唯一の犠牲者とも言える。
だが光季が事前に遣った使者により、幕府は乱の第一報を得る事が出来た。この功績により、光季の遺領は彼の息子達に安堵された。