概要
鎌倉幕府成立時に、公武間の連絡から後白河法皇の圧力を排除する目的で源頼朝の働き掛けで設置されたと考えれらる。後鳥羽上皇の院政期、親幕府派の公卿西園寺公経(4代鎌倉殿・九条頼経の母方外祖父)らが任じられた。承久の乱の際、公経ら親幕府派は後鳥羽上皇により幽閉されるが、乱終息後再任され、坊門信清(3代鎌倉殿・源実朝の義父)・九条道家(前関白、九条頼経の父)らが務めた。
経過
寛元の政変
1296(寛元4)年、九条頼経が失脚し、京都に強制送還されると(宮騒動)、幕府は朝廷側に圧力をかけ、前執権|呪詛の咎で九条道家を失脚させ、朝廷に於ける九条家の動きを封殺するよう働きかけた。この一連の事件を「寛元の政変」と言う。
その後
寛元の政変による九条家失脚以降、申次職は西園寺家が世襲し、幕府唯一の窓口を担った西園寺家の権勢は増長した。
一方で幕府側の申し入れにより、申次の職務が改革され、幕府と個人的な縁故を持つ公家が担ってきた交渉窓口から、政務活動に特化した制度的な窓口として定着するようになった。
また、従来将軍に直送された綸旨や院宣が、関東申次を通して施行されるようになり、両統迭立下における皇位継承を始めとする朝政に幕府は干渉するようになった。