概要
九条良経の男子、官位は従一位、摂政、関白、左大臣。自身の建立した光明峯寺にちなんだ「光明峯寺殿(関白)」の通称でも知られる。
プロフィール
時代 | 鎌倉時代 |
---|---|
生誕 | 建久4年6月28日(1193年7月28日) |
死没 | 建長4年2月21日(1252年4月1日) |
官位 | 従一位、摂政、関白、左大臣 |
主君 | 土御門天皇→順徳天皇→仲恭天皇→後堀河天皇→四条天皇→後嵯峨天皇→後深草天皇 |
氏族 | 九条家 |
父母 | 父:九条良経、母:一条能保の娘 |
兄弟 | 道家、立子、ほか |
妻 | 西園寺倫子(西園寺公経の娘) |
子 | 教実、良実、頼経、実経、竴子、ほか |
経歴
目覚ましい栄進
祖父の九条兼実から早くより目をかけられ、彼の下で養育されてきた道家は、元服に際し正五位下に叙任されたのを皮切りに、元久2年(1205年)には従三位となり公卿に列し、程なく権中納言に叙せられるなど、早くから栄進を重ねた。
さらに承元3年(1209年)、守成親王(後の順徳天皇)の妃として姉の立子を娶わせた事で、天皇家と外戚関係となった道家の栄進ぶりにもさらに拍車がかかり、建保6年(1218年)には左大臣にまで登っている。その背景には天皇家との外戚関係以外にも、岳父である西園寺公経と関係の深かった、鎌倉幕府の後ろ盾もあったと見られている。
左大臣昇任の翌年、建保7年(1219年)に鎌倉幕府第3代将軍・源実朝が横死すると、その後継者として道家の三男・三寅(後の九条頼経)に白羽の矢が立ち、道家もこれに応じて三寅を鎌倉へ下向させた。三寅の両親、即ち道家と西園寺倫子は共に源氏の血を引いており、この事が将軍後継者としての擁立の決め手となったのである。
一方で道家の栄進ぶりは依然留まる事を知らず、順徳天皇が皇太子の懐成親王(仲恭天皇)に譲位した事により、外祖父である道家も摂政の座に登る事となる。ところがそれも束の間、順徳上皇や後鳥羽上皇を中心に幕府執権・北条義時討伐の企てが発生(承久の乱)、鎌倉方の反攻によりこれが鎮圧されると、この企てとは無関係であったはずの仲恭天皇や道家にも累が及んだ。即位したばかりの天皇は廃位の上、残りの生涯を道家の元で蟄居の日々を送る事となり、道家もまた摂政を罷免されるなど、それまでの栄進ぶりに水を差される格好となったのである。
将軍の父・天皇の外祖父
とはいえ、そうした不遇も長くは続かず、嘉禄2年(1226年)、前年の北条政子の死去に伴い九条頼経が正式に征夷大将軍に就任すると、道家も2年後の安貞2年(1228年)に関白に就任、再び復権を果たすに至る。
またこの頃には長女の竴子(後の藻璧門院)を後堀河天皇の女御として入内させるなど、朝廷との縁戚関係の再構築にも務め、後に竴子が産んだ秀仁親王(四条天皇)が践祚すると、その外祖父という立場から朝廷の実権を掌握した。またこれに先んじて関白職を長男の教実に譲っており、教実は親王の即位に際して摂政の座に就いているが、文暦2年(1235年)に死去したため道家が短期間ながらも再度摂政を務めている。
嘉禎4年(1238年)に出家し、行恵と号した道家はその後も禅閤(出家した太閤を指す称号)として権勢を振るい、また四男の実経を始めとする息子や孫たちも朝廷や、門跡寺院において枢要な地位を占めるなど、道家個人のみならず九条家にとっても最盛期ともいうべき時期を迎えていた。
とはいえ道家もこれに安心する事はなく、仁治2年(1241年)には元服したばかりの四条天皇の女御として自身の孫娘を入内させ、次代を見据えた地位の確立も模索していた。しかしその動きは翌年の天皇の夭逝によって頓挫し、道家の権勢もまた次第に陰りを見せる事となるのである。
道家の斜陽
四条天皇の崩御後、道家はその後継者として縁戚にあたる忠成王を推挙したが、これに待ったをかけたのが時の幕府執権・北条泰時と六波羅探題・北条重時であった。というのも、忠成王は佐渡に配流された順徳上皇の皇子でもあり、かつての承久の乱に加担した当事者の子孫を天皇に擁立するこの動きは、幕府や北条氏としては到底容認し難いものがあったのである。
結局、四条天皇の後を受けて践祚したのは後嵯峨天皇(土御門天皇の皇子)であり、その後嵯峨天皇は立場の安定化のため、この頃道家との関係が悪化していた西園寺家と姻戚関係を結ぶなど、天皇家との関係を失った道家の権勢はこれ以降大幅に衰退していく事となった。
とはいえ、寛元2年(1244年)の西園寺公経の死に伴い、公経が任されていた関東申次(朝幕間の連絡・意見調整を行う役職)の職を道家が受け継ぎ、将軍の実父である事を背景に幕府の施策へも干渉するようになった他、公経の後援で関白となっていた次男・良実を排して四男の一条実経をその後釜に据えるなど、朝廷内での権勢を一時的に取り戻した・・・かに見えた。
だがこうした権勢回復に向けたなりふり構わぬ動きは、必然的に道家の朝廷内での信望の失墜や、幕府からの警戒視を招くものに他ならず、特に後者に関しては道家が、名越流や三浦氏など反北条得宗家勢力の支持を集めていた事もあり、最早座視出来かねる段階にまで差し掛かっていた。
こうした中、寛元4年(1246年)の九条頼経の廃位、そして同年発生した宮騒動に絡み、道家も後嵯峨上皇並びに後深草天皇の廃位を企てたとして、関東申次の職を罷免され政治的立場を失う事となった。この一連の動きに道家がどこまで関与していたかは未だ不明な点も多く残るが、後の宝治合戦の折に三浦光村(三浦泰村の弟)が残した言葉から、積極的な関与を疑う向きも少なからず存在する。
さらに建長3年(1251年)、孫で5代将軍の九条頼嗣を中心とした幕府転覆計画が明るみに出ると、それへの関与も疑われた道家は幕府執権・北条時頼からの厳しい追及を受ける事となった。こうした状況の中で翌建長4年2月21日、道家は58歳で死去。政治生命を絶たれた事や、度重なる幕府からの追及に憔悴しきった末の病死とも、また幕府の手の者による暗殺とも伝わる。
道家の死去は、同じく前述の幕府転覆計画に絡んで右大臣を解任された嫡孫・忠家にも大きな痛手となり、その後の九条家も九条流の嫡流の座を巡って一条家の風下に置かれるなど、死後も深い爪痕を残す格好となった。