曖昧さ回避
- 日本の公家の1つ。本記事で解説。
- スタンドマイヒーローズの九条家(スタマイ)。
- AVATAR2.0のバーチャルYouTuberの中の4人。⇒九条家(VTuber)
概要
平安末期~鎌倉初期の公卿・九条兼実(藤原忠通の六男)を祖とする。京都の九条殿(陶化殿)に住んだのが家名の由来であり、分家として同じく五摂家のひとつとして数えられる一条家と二条家が後に立てられ、九条家も含めたこの3家を「九条流」という。
平氏政権に批判的で、また後白河法皇とも距離をおいていた兼実は、坂東にて勢力を伸長しつつあった源頼朝の推挙により、摂政・関白に就任。後に法皇が崩御すると一時的ながら朝政を主導した。
その孫である九条道家の代になると、天皇家との姻戚関係の構築のみならず、三代目鎌倉殿・源実朝が公暁に暗殺され源氏将軍が断絶したことに伴いその後継者として三男・三寅(九条頼経)を鎌倉へ下向させた事で、朝廷のみならず鎌倉幕府へも影響力を及ぼすなど栄華を極めた。
しかし鎌倉幕府における北条得宗家の専制確立と、それに付随しての内部抗争の煽りを喰らう。道家の晩年は「宮騒動」に連座し北条時頼によって頼経共々失脚。のち頼経・頼嗣父子は鎌倉を追放され摂家将軍もわずか2代で途絶えるに至り、それまでの隆盛ぶりから一転して九条家は不遇の時期に突入する事となる。中でも道家と確執があった次男・二条良実は二条家として独立、道家に偏愛された四男・一条実経も一条家として独立。この時期は近衛家も鷹司兼平が鷹司家を興しており「五摂家」が確立した。九条流では早世した道家の長男・九条教実の遺児である忠家に残した処分状を根拠として、一条家が九条流における嫡流を主張し始めた(※)事は、その後室町初期に至るまで両家の間での嫡流争いへと繋がっていった。
さらに室町後期には九条家内部での家督争い、さらに所領の処置を巡っての対立の末に発生した唐橋在数(九条家家令)殺害事件などを経て、朝廷内での九条家の影響力・求心力は大幅に低下、経済的にも困窮を極めるなど事実上没落状態にあり分家であるはずの一条家や二条家の下風に立つことになった。
江戸期に入ると、九条幸家(忠栄)が徳川将軍家との姻戚関係を通して朝幕間の仲介役としての地位を確立、さらに室町末期に断絶した松殿家の所領も継承した事で、再び勢力を盛り返した九条家は幕末に至るまで、朝政における重鎮としてあり続けた。幕末期の当主・九条尚忠は幕府と協調路線を取り、日米修好通商条約の許可や和宮の降嫁などを推進したが、これが孝明天皇や尊皇攘夷派の公卿たちの反感を買い、隠居を余儀なくされている。
明治維新の後、最後の藤氏長者となった九条道孝は旧・摂家当主として公爵に叙爵され、華族に列せられた。華族制度廃止後の当主である道弘(明仁上皇の再従兄)は平安神宮の宮司として、またその子息で現当主の道成(今上天皇および秋篠宮文仁親王の四従兄)は明治神宮の宮司として神職についている。
皇室との関係
兼実の娘任子は後鳥羽天皇の中宮、良経の娘立子は順徳天皇の皇后となり仲恭天皇を産む、九条道家の娘竴子は後堀河天皇の中宮となり四条天皇を産む、九条尚忠の娘夙子は孝明天皇の女御となる。
近世以降も、九条道孝の四女である節子が大正天皇の皇后(貞明皇后)となり、昭和天皇を産んでいる。このため、2021年現在の皇室にも九条家の血筋が引き継がれている。
歴代当主
代 | 氏名 | 生年、誕生日 | 続柄 |
---|---|---|---|
1 | 九条兼実 | 久安5年(1149年) | 藤原忠通の六男 |
2 | 九条良経 | 嘉応元年(1169年) | 兼実の次男 |
3 | 九条道家 | 建久4年6月28日(1193年7月28日) | 良経の次男 |
4 | 九条教実 | 承元5年1月5日(1211年1月21日) | 道家の長男 |
5 | 九条忠家 | 寛喜元年(1229年)7月 | 教実の長男 |
6 | 九条忠教 | 宝治2年(1248年) | 忠家の男子 |
7 | 九条師教 | 文永10年5月27日(1273年6月13日) | 忠教の長男 |
8 | 九条房実 | 正応3年(1290年) | 忠教の男子 |
9 | 九条道教 | 正和4年(1315年) | 師教の男子 |
10 | 九条経教 | 元弘元年/元徳3年(1331年) | 二条道平の男子 |
11 | 九条忠基 | 興国6年/貞和元年(1345年) | 経教の男子 |
12 | 九条満家 | 応永元年(1394年) | 経教の男子 |
13 | 九条政忠 | 永享12年(1440年) | 満家の男子 |
14 | 九条政基 | 文安2年5月7日(1445年6月12日) | 満家の男子 |
15 | 九条尚経 | 応仁2年11月25日(1469年1月7日) | 政基の長男 |
16 | 九条稙通 | 永正4年1月11日(1507年2月22日) | 尚経の男子 |
17 | 九条兼孝 | 天文22年11月20日(1553年12月25日) | 二条晴良の長男 |
18 | 九条幸家 | 天正14年2月19日(1586年4月17日) | 兼孝の長男 |
19 | 九条道房 | 慶長14年8月13日(1609年9月11日) | 幸家の次男 |
20 | 九条兼晴 | 寛永18年2月6日(1641年3月17日) | 鷹司教平の三男 |
21 | 九条輔実 | 寛文9年6月16日(1669年7月13日) | 兼晴の長男 |
22 | 九条師孝 | 元禄元年10月4日(1688年10月27日) | 輔実の長男 |
23 | 九条幸教 | 元禄13年5月16日(1700年7月2日) | 輔実の次男 |
24 | 九条稙基 | 享保10年10月13日(1725年11月17日) | 幸教の男子 |
25 | 九条尚実 | 享保2年6月21日(1717年7月29日) | 輔実の三男 |
26 | 九条道前 | 延享3年6月13日(1746年7月30日) | 尚実の長男 |
27 | 九条輔家 | 明和6年9月12日(1769年10月11日) | 道前の男子 |
28 | 九条輔嗣 | 天明4年9月15日(1784年10月28日) | 二条治孝の次男 |
29 | 九条尚忠 | 寛政10年7月25日(1798年9月5日) | 二条治孝の八男 |
30 | 九条幸経 | 文政6年4月26日(1823年6月5日) | 鷹司政通の男子 |
31 | 九条道孝 | 天保10年5月1日(1839年6月11日) | 尚忠の長男 |
32 | 九条道実 | 1870年1月16日(明治2年12月15日) | 道孝の長男 |
33 | 九条道秀 | 1895年(明治28年)8月9日 | 道実の長男 |
34 | 九条道弘 | 1933年(昭和8年)12月13日 | 道秀の長男 |
35 | 九条道成 | 1968年(昭和43年) | 道弘の長男 |
分家
- 大岡家(武家、三河西大平藩・武蔵岩槻藩):教実の後裔を自称。