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孝明天皇

こうめいてんのう

第121代天皇。仁孝天皇の第四皇子。幕末期の天皇として激動の時代を生きたことで知られる。
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即位まで編集

天保2年(1831年)6月14日、仁孝天皇の第四皇子として生誕、母は正親町実光の女・雅子(新待賢門院)。文章博士の勧進により、父君仁孝天皇の直筆で熙(比呂)と命名、幼名を熙宮、諱を統仁(おさひと)と称し、天保6年(1835年)6月21日、儲君治定、同年9月18日、親王宣下を受け、天保11年(1840年)3月14日、立太子した。

弘化3年(1846年)1月26日、父・仁孝天皇が崩御したことにより践祚、翌弘化4年(1847年)即位した。


時代背景編集

当時、日本は欧米諸国からの外交圧力にさらされようとしていた。

まずは蝦夷地を守っていた松前藩とロシア軍の軍事衝突に始まる(露寇事件)。文化4年(1807年)に起きたこの事件はその前年に外交使節としてニコライ・レザノフが幕府の支持を受けて長崎に廻航、通商を拒絶されたことから報復として樺太・択捉など日本側の拠点を襲い多数の死傷者を出すこととなった。


ロシアはこれであきらめず、ロシアに漂着していた商人・高田屋嘉兵衛の日本送還を外交交渉の材料にしようとした(文化10年(1813年))。ロシアの女帝・エカチェリーナ2世は嘉兵衛を丁重に日本に送り返すことにより、長く国を閉ざしていた日本が「国」を開いて国交を結ぶことを期待した。ところが江戸幕府はその要請に応じず、日本に囚われていたロシア人・ゴローニンを送り返すことにより、交渉を終結させた。


さらに文化5年(1808年)8月にはイギリス船・フェートン号がオランダ船を拿捕するため長崎に入港、一触即発の危機が起こして当時の長崎奉行が切腹するなど日本周辺をめぐって不穏な動きが増しつつあり、文政7年(1824年)の大津浜事件、宝島事件を経て翌文政8年(1825年)には「異国船打払令」が発令されるに至った。


黒船来航編集

嘉永6年(1853年)6月、マシュー・ペリー率いるアメリカ艦隊4隻が浦賀に来航、欧米諸国の中で唯一外交関係のあったオランダから情報を入手していた幕府は意見を諸大名、旗本、一般庶民などに求める。水戸藩主・徳川斉昭で彼は「異国船を直ちに打ち払うべし」と主張するなど強硬派が多数を占めた。当時、12代将軍徳川家慶は病床に伏し(その後、死去)、対応に苦慮した老中首座・阿部正弘は返事を一年先延ばしにすることでお台場の砲台建設を代表する軍備増強、意見の集約を図った。


嘉永7年(1854年)2月、ペリーが7隻の艦隊を率いて再び来航、3月31日、下田、函館を開港し、薪・水・食料を補給する「日米和親条約」が締結された。


日米修好通商条約編集

安政5年(1858年)7月、アメリカの圧力に屈し、幕府は「日米修好通商条約」を締結させた。治外法権・日本側に関税自主権がなかったことから、明治新政府も改正に50年近くかかった悪名高い不平等条約と現在も批判されている代物である。


幕府の実権を握る大老・井伊直弼は孝明天皇からの勅許を得ようと老中・堀田正睦を朝廷に派遣するが失敗、勅許を得られなかったことから条約締結は不当なものとなり守旧派の公家や水戸藩前藩主・徳川斉昭、尊王攘夷派の志士達による幕府への不満は増していくこととなり、京・大阪などの治安は急速に悪化することとなった。


さらに水戸藩に対し、幕府に対して攘夷を推進するように改革を指示した「戊午の密勅」を出したことが、幕府の怒りに触れて後の安政の大獄の引き金となる。


安政の大獄・桜田門外の変編集

急速な治安の悪化に大老・井伊直弼は強権的な治安維持に乗り出した。

井伊は尊攘派の急先鋒である水戸藩前藩主・徳川斉昭、反対派の斉昭の七男・一橋慶喜、越前藩主・松平慶永、宇和島藩主・伊達宗城を蟄居・隠居とし、尊攘派の志士達の多くを弾圧した(安政の大獄)。これらの措置に反発した水戸藩・薩摩藩の浪士達は、万延元年(1860年)3月3日、江戸城桜田門前において井伊の行列を襲撃、これを殺害した(桜田門外の変)。


公武合体編集

井伊の死後、幕政を担ったのは老中首座・安藤信正であった。安藤は揺らぎつつある幕府の権威を守り、政権の安定を守ろうと天皇家と将軍家の婚姻を結ぶことを考え、これに岩倉具視も同調、孝明天皇もこれで攘夷がなるならと妹宮・和宮の降嫁に同意した。


しかし当時、和宮には婚約者として有栖川宮熾仁親王があり、「どうしてもと言うなら、わたしは尼になる」と断るのを天皇は「これも国のため」と説得、その結果和宮は、文久2年(1862年)2月、江戸に下向し将軍・徳川家茂との婚儀を行った。


文久3年(1863年)3月、家茂は上洛して天皇に謁見、攘夷を約束する。


京の治安悪化編集

この間も京の治安は悪化の一途をたどっていく。尊攘派の中にはたしかに国を憂えて行動を起こす者もいたが、軍資金徴用と称して商家に押し入り、金品を巻き上げる不届き者もいたのである。


文久2年(1862年)閏8月、京の治安を安定させるために会津藩主・松平容保が京都守護職に就任、翌文久3年(1863年)3月には新選組の前身となる壬生浪士組を結成(同年に起こった「八月十八日の政変」の功績により新選組と改名する)


文久3年(1863年)8月18日、薩摩・会津両藩が協力して尊王攘夷派の急先鋒である長州藩と長州藩に同調する公卿七人を京より追放、長州藩は三条実美をはじめとする七人の公卿とともに領国に落ち延びていった(八月十八日の政変)。


池田屋事件そして禁門の変(蛤御門の変)編集

元治元年(1864年)7月8日、京の旅籠・池田屋に潜伏していた尊攘派の志士を新選組が摘発。


同元治元年8月20日、巻き返しを図った長州軍が京を舞台に幕府軍と戦端を開き破れる。彼らの目的はいずれも天皇の身柄を押さえて主導権を握ることにあったとされている。


長州征伐編集


元治元年(1864年)8月24日、天皇は将軍・家茂に「長州征討の勅命」を下し、幕府軍は長州藩領を囲んだ。この戦争は終始幕府軍優勢に終わり、翌慶応元年(1865年)1月、椋梨藤太ら長州藩家老3人の切腹で終わったかに見えたが、幕府に大阪に来訪することを約束した藩主・毛利敬親・元徳父子は病と称して来訪を拒否。業を煮やした幕府は再び長州を囲んだ。


将軍・家茂も上洛し指揮をとるが、薩摩藩は長州藩と同盟の密約を結んでいたため戦意がないうえ、長州軍を指揮していた大村益次郎の軍略と奇兵隊を率いる高杉晋作のゲリラ戦に小倉城は陥落、苦戦を強いられた幕府軍は、慶応2年(1866年)7月、将軍・家茂の突然の死により撤退、事実上の敗戦に追い込まれた。


15代将軍・徳川慶喜編集

徳川宗家の家督を継いだのは将軍後見役・一橋慶喜だった。慶喜は当初将軍就任を固辞したが、家茂の死の4ヶ月後、ようやく将軍に就任した。


天皇は前将軍同様厚く依頼するから、政務筋はこれまでの通り取り扱うようにとの沙汰をし、慶喜もまた朝廷尊崇の誠意を示し、難局にあたろうとしていたのであるが、天皇は慶応2年(1867年)12月21日、崩御、死因は疱瘡(天然痘)と考えられている(数え35歳)。


孝明天皇と中山忠能の女・慶子との間に生まれた睦仁親王(明治天皇)が践祚の後、徳川慶喜が大政を奉還を上奏したその日、慶応3年(1867年)11月15日、倒幕の密勅(岩倉具視による偽造との説もある)が薩摩と長州の二藩に下った。


孝明天皇の攘夷論と幕府の開国論は対立する思想ではあるが、必ずしも幕府の崩壊を望んでおらず、公武が一体となって国難にあたることを共通する政治姿勢としており、幕府にとってかけがえのない最も有力な味方でもあった。倒幕を目論む薩長にとっては目の上のこぶであり、当時から暗殺説もあったが確かな証拠は無い。暗殺には、討幕派の公卿・岩倉具視の妹である堀川紀子(ほりかわもとこ)という人物が回復しかかった孝明天皇の食事にヒ素を盛ったといわれている。この暗殺説をさらに発展させたものに、孝明天皇が暗殺されたのち、同じく討幕派の目の上のコブであった皇子の睦仁親王も暗殺され、長州・田布施出身の少年で伊藤博文と親しかった「大室虎之祐」という人物が伊藤や岩倉らにより祭り上げられ、明治天皇に成り代わった……という「明治天皇すり替え説」という奇説があるが、陰謀論の域を出ない。


御陵は京都の後月輪東山陵であり、京都平安神宮の祭神として祀られている。


皇統編集


関連タグ編集

天皇 皇室 幕末 八重の桜 新選組

御陵衛士︰孝明天皇陵の警護を表向きの目的とした。

松平容保︰孝明天皇の信頼厚く、八月十八日の政変後に贈られた宸翰(天皇の御製と手紙)を竹筒に入れて生涯肌身から離さなかった。

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