概要
江戸時代末期の文久3年8月18日に公武合体派が尊王攘夷派の公家や長州藩を追放した事件。
発端
嘉永6年(1853年)にアメリカからペリーが来航し幕府は日米和親条約を結んだ結果、開国か攘夷の二つの意見が分かれ対立が始まった。さらに幕府は朝廷の勅許が無いまま日米修好通商条約を結び当時の関白九条尚忠も幕府に同調したことで尊皇攘夷派の公家から反発を受け最終的に隠居することになった。この件によって尊皇攘夷が広まっていき大老井伊直弼による安政の大獄が始まり多くの攘夷派の公家、大名、志士などが処罰された。直弼は後に桜田門外の変で殺害された。
政変までの流れ
事件後も長州藩による攘夷が京都でも起こる中、孝明天皇は公武合体に動き始め妹和宮を将軍徳川家茂に降嫁することとなった。その後江戸へ三条実美と姉小路公知が家茂に攘夷を実行するように督促した。さらに長州藩による外国船砲撃事件が発生し天皇は長州藩から離れ幕府と共に攘夷へ動き始めていった。長州藩は天皇の大和への行幸の詔を出す計画を進めていく中長州藩の動きに不審に思った薩摩藩の島津久光は天皇と会津藩と共に長州藩や尊皇攘夷派の公家を追放する計画を開始した。
政変決行
文久3年(1863年)の8月18日に政変を決行し御所内には中川宮朝彦親王と二条斉敬、松平容保が参内、御所の門全てに薩摩藩、会津藩、淀藩の兵が集結し守りを固めた。これにより三条実美ら急進派の公家は禁足、長州藩は堺町御門の警護の職を失い更に大和への行幸も延期となった。最終的に実美含む尊皇攘夷派の公家7人は長州藩の兵と共に長州に向かった。
事件後
事件後は長州藩は回復を図り池田屋事件や禁門の変を起こしたが後に政変に大きく動いた薩摩藩と同盟を結び討幕に大きく動くことになった。