概要
日米和親条約に続いて1858年に日本とアメリカの間で結ばれた条約。
この条約により日米の交流が本格的になった。
しかし治外法権や日本側に関税自主権がないなどの不平等な条約で、不平等な条件の撤廃にはかなりの年月を要した。
(箱館は日米和親条約で既に開港していた。下田の港は後に閉鎖された)
神奈川は東海道に位置していて国の重要な場所に外国人が多数押し寄せるのは危険だったため、実際には横浜が開港された。
兵庫は既に発展していて開発の余地がなかったためか、実際には隣の神戸が開港された。
新潟は河口にあり土砂が堆積しやすいので近代的な大型の船が往来するには適していなかったため、国際的な貿易港としてはあまり発展しなかった。
この不平等条約を受け入れた理由としては国力(武力)の差に屈したからと言われているが、実はアヘン対策という側面もあったことは余り知られていない。
当時の世界はアヘン戦争に代表されるように単なる薬物汚染に留まらず、生産国がアヘンを事実上の侵略用武器として用いたことから重大な国際問題と化しており、また日本とアメリカはアヘン禁止という点で一致していたことからお互い手を組むことに全くメリットが無かったわけではなかったりする。