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和宮

かずのみや

和宮 親子内親王(かずのみや ちかこないしんのう)。
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概要

弘化3年閏5月10日1846年7月3日) - 明治10年(1877年9月2日
孝明天皇の異母妹。江戸幕府第14代将軍徳川家茂御台所

大老・井伊直弼の主導する幕府天皇の許可無く開国したことや、尊王攘夷を唱える志士、大名公家への弾圧安政の大獄を行ったことで、朝廷と幕府の関係が悪化したため、朝廷と幕府の関係改善(公武合体)の一環として、攘夷実行という条件つきで、徳川家茂の正室として降嫁することが決まる。
和宮は有栖川宮熾仁(たるひと)との間に婚約が決まっていたので嫌がり、である孝明天皇も難色を示すが、朝廷の苦しい立場を思い結婚を承諾した。
家茂とは政略結婚であったが家茂が紀州藩出身で自分も幼くして江戸に連れてこられたということから互いに親近感が沸き夫婦仲は良好であったと言われる。
和宮のにあたる篤姫とは皇室出身者と武家出身者の生活習慣の違いもあり嫁姑問題が発生。後に和解したと言われる。

朝廷との約束だった攘夷実行のため、家茂が京都へ呼び出されるが、第二次長州征伐の際中、大阪城で急死。落飾し静寛院となる。
その後、孝明天皇が崩御するなど、1年余りの間に母・夫・兄を次々と失う。

1868年正月3日鳥羽伏見の戦いが勃発。幕府は朝敵となり、15代将軍徳川慶喜は江戸へ逃げ帰る。
錦の御旗を立てた官軍の大総督は、かつての婚約者、有栖川宮熾仁親王だった。
姑の篤姫と共に徳川家存続と慶喜の助命を訴え、江戸城無血開城により大奥を退去した。

一旦京に戻るが、東京遷都に伴い、明治7年(1874年7月、再び東京に戻る。
麻布市兵衛町(現・港区六本木1丁目)にある元八戸藩主南部信順の屋敷に居住し、皇族天璋院家達をはじめとした徳川一門などと幅広い交流を持つようになった。
しかしこの頃より脚気を患い、明治10年(1877年8月、元奥医師の遠田澄庵の転地療養の勧めがあり、箱根塔ノ沢温泉へ向かった。

程なく明治10年9月2日、夫の家茂と同じ脚気衝心のため療養先の塔ノ沢で薨去した。32歳という若さであった。
当初、政府は葬儀を神式で行う予定であったが、和宮の「家茂の側に葬って欲しい」との遺言を尊重する形で、仏式で行われた。
墓所は東京都港区の増上寺

人物

  • 大阪城で亡くなった夫の亡骸とともに、和宮のもとに西陣織が届けられる。家茂が大坂へ出立する際に、「土産は何がよいか」と尋ねられたのに対し、西陣織を所望したものだった。愛した夫が二度と帰らず、土産だけが自分の元に届いたという皮肉で残酷な現実を前に、和宮は悲痛な想いを込めた以下の歌を詠んだ。

  空蝉の 唐織り衣 なにかせん 綾も錦も 君ありてこそ

  • 徳川家の墓の改葬に際し発掘調査が行われた際、和宮のを調べたところ、一枚のガラス湿板(乾板とされる資料もあるが報告書によると湿板が正しい)を副葬品として抱いているのが見つかったという。単なる懐中鏡か何かの腐敗品と思い持ち帰って調べたところ、烏帽子直垂姿をした若い男性らしきものが写っており、それは写真湿板であったとされる。その場には発掘係員以外不在であったため、翌日写真技師を呼んで再度調査を予定していた。だがその後の保存処理が悪かったため、翌日には湿板はただのガラス板になっていたという。残念ながらその後どうやっても写真は復元出来ず、後に和宮の改葬された墓に改めて納められた。この男性の正体は未だに不明であるが、家茂である可能性が強い。

登場作品

小説

ドラマ


関連タグ

江戸時代 幕末

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