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概要
元は中国の春秋時代の言葉。日本における対立思想は『開国』で、以下の経緯から使用されるようになった。
ペリーの艦隊が浦賀に来航した際に、浦賀奉行所は与力の中島三郎助が通詞の堀達之助と共に対応し、堀が英語で士官と交渉して登艦を許され、中島が退去命令書を渡したが、ペリーは副官を通じて日米通商条約を結ぶための大統領国書を持参しており、日本の代表者にしか渡せないと返答した。
これに対し与力の香山栄左衛門は、浦賀は外国人応接の場ではないため長崎に回航するよう伝えたが、これに旗艦サスケハナのフランクリン・ブキャナン艦長らが、武力をもって上陸し通商条約の国書を渡しに行くと脅迫を行ってきた。
幕府は拒んだ際に戦禍を招き犠牲者が出ることを避けるため、将軍が重病であるとして、浦賀奉行の井戸弘道がひとまず国書を受けとった。
国書が幕府に届いた後、幕閣を集めて衆議が開かれ、その後朝廷にも事の次第が伝えられ、孝明天皇は国を憂い、七社七寺に十七日間にわたって『四海静謐』『宝祚長久』『万民安穏』を祈願されたという。
従来は幕府が国政を一任されていたが、今回は英文の国書を翻訳して各藩の藩主に意見を聞き、その際に薩摩藩主島津斉彬は
「米国の要求を受け入れることは、幕府の対面を傷つけ、外国からの侮りを招く恐れがある。しかし、今すぐに米国と砲火を交えても、必勝を期し難い。交渉をできるだけ長引かせ、回答を三年延ばすことにしてはどうか。その間に武備を充実させ、民力を養うことによって一挙に『外夷を撃攘する』ことは決して難しくない」
という主旨の書状を幕府に提出した。
その後、多くの大名が斉彬の主張に共感し、これ以降「攘夷」が国防を主張する武士の合言葉となって、帝国主義による欧米のアジア侵略への抵抗・反発の運動として盛り上がった。
このように元々は反幕府の運動ではなかったのだが、尊皇思想と結びついた攘夷のエネルギーは倒幕に結びつき、明治維新の原動力となった。詳細はこちら⇒尊王攘夷
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