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江戸城

えどじょう

現在の東京都千代田区に築かれた城。徳川幕府の中枢として260年間日本の政庁となり、明治以降も皇居として日本の中心に存在する。

武蔵国豊嶋郡江戸(現在の東京都千代田区)に築かれた
別称、千代田城。

概要

室町時代半ばの1457年に扇谷上杉氏の重臣太田道灌により最初の江戸城が築かれた。

1590年に徳川家康が関東へ移封され居城とした。
当時は道灌の築城した小規模な城で建築物も荒廃した状態であったという。

江戸城天守(慶長度)


1603年に江戸幕府が開かれると現在の皇居及び周辺部を近世城郭に改造した。日本の政治の中心地として城域も大拡張され、当時江戸湾の一部であった現在の日比谷や銀座を埋め立て、山であった神田を掘削し外郭の堀を造成した。
白亜・鉛瓦葺の五層連立式天守も建造され、富士山と白さを競ったといわれる。
二ノ丸には小堀遠州が内堀を内部に引き込み水上に釣殿を設けた優雅な御殿も造営した。

1622年、二代将軍秀忠の代に本丸拡張工事を行ない天守を撤去新造した。作事したのは三河大工で、名古屋城天守同様二重目に出窓を設け石落としとする意匠が見られた。

寛永期?江戸城復元図


三大将軍家光の代、寛永期に完成し、三代目天守が新造された。壁面を漆で防火加工された「黒ふすべ」で覆われ、瓦も銅瓦(近年の考証ではこれも黒塗りの防火仕様だったとされる)と軒の金箔瓦で装飾され、黒と白と金の壮麗な天守であった。
本丸御殿も巨大な大屋根を持つ表御殿(儀典用の体面所)を中心に厖大な建築群が建設され、内部は狩野派による豪壮な障壁画で装飾された。

表御殿から将軍の執務空間である黒書院を結ぶ松の廊下は、江戸の有力商人を招いての能舞台観覧席にも使用された。

1657年に明暦の大火で天守閣を含めた城構の多くを焼失した。外部は完全な防火仕様だったが、天守二層目に火災旋風が発生、窓が吹き飛ばされたため気圧差で火炎が天守内部に乱入し、内部から炎上したと考証されている。

大火後、4代将軍・徳川家綱の後見役を務めていた保科正之(3代将軍・徳川家光の異母弟)の決断により天守閣の再建を断念、江戸市街の再建を優先することとなった。以後は現存する本丸最南端の三階櫓、富士見櫓が天守の代用とされた。

また、大屋根を持つ本丸御殿も、平面構造は焼失前を踏襲しながら、大屋根を廃止し「ロ」の字型の小規模な建築で再建した。

この後、天守閣再建は徳川吉宗の代などに何度か計画され、立地割(設計図)も作成されたが、資金的な問題より「再建する意義が無い」とされ中止されている。これにより江戸は「天守のない城下町」となっている。

その後も江戸城はたびたび火災に見舞われ、幕末には二ノ丸外周の櫓、門、多門櫓、将軍隠居後の住居である西の丸を除いて、本丸以下ほぼ廃墟と化した。

1868年に明治維新官軍が江戸に向けて進軍すると幕府側・勝海舟、官軍側・西郷隆盛の交渉により無血開城、明治天皇の江戸行幸以降は、辛うじて焼け残っていた西の丸に入城し、以後宮城、戦後の呼称では皇居東京城)となった。
その後残っていた外郭諸門、本丸北面、二ノ丸外周の門などは破壊された。
破壊を惜しんだ太政官少史・蜷川式胤は、明治4年に遺構を写真撮影している。
外郭の諸門(内郭と合わせ江戸三十六見附と俗称される)も破却され、現在では石垣を残す門も四谷門、飯田橋門、常盤橋門など少数となって市街に埋没している。

明治6年、下女による失火で西の丸御殿が焼失。その後も関東大震災東京大空襲により残っていた建造物の多くが失われた。
現在、西ノ丸が宮殿の敷地となっており、本丸ほかは皇居外苑として一般開放されている。

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江戸時代 大奥 松の廊下
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