生没年 慶長9年(1604年)~慶安4年(1651年)
江戸幕府と幕藩体制を完成させた人物。
生涯
誕生前後
慶長9年(1604年)に江戸城西の丸で秀忠と正室・江の子として誕生。祖父の徳川家康の幼名と同じ「竹千代」が名付けられ、徳川家の家督を継ぐことを期待された。ちなみに竹千代には腹違い(母は側室)の兄・長丸がいたが、2歳(数え歳のため実際には0歳)で既に夭折してしまっていたために正室の子でもあった竹千代は生まれながらに嫡男となった。
時は折しも戦国乱世から天下泰平へと変わる重要な過渡期だった。天下人・豊臣秀吉亡き後の慶長5年(1600年)に家康は関ヶ原の戦いで石田三成を倒し、慶長8年(1603年)に将軍に任じられ江戸幕府を開いた。慶長10年(1605年)に家康は将軍職を秀忠に譲って大御所となり、将軍職は徳川"将軍"家が世襲することを示した。残存する豊臣家との緊張は高まり、ついに慶長5年(1600年)と翌元和元年(1615年)の大坂の陣で豊臣家を滅ぼし、戦国の終了と天下の平定を意味する「元和偃武」が宣言された。
竹千代はそんな時代を背景に徳川将軍家とその天下の未来を担う人物とされた。しかし、その前途は幼少の頃から多難だった。
孤独と奔放
乳母・春日局に育てられた少年時代の竹千代は病弱で吃音であったために引っ込み思案な性格で容姿も美麗とは言えなかったとされ、両親は利発な性格の弟・国松(後の徳川忠長)ばかり寵愛し、実の親からの愛情に恵まれていなかった。
春日局は竹千代の不遇を憂い、さらにこのまま廃嫡になることを心配し、駿府の家康に窮状を直談判。これを重く見た家康は秀忠一家や重臣たちに竹千代こそが徳川家の世継であることを明確化。徳川家と幕府が後継者争いで二分する事態は回避された。自分の味方になってくれた祖父を竹千代は大きく恩に感じた。
成長した竹千代は元和2年(1616年)に酒井忠利・内藤清次・青山忠俊が年寄衆として付けられ、60数名の少年たちが小姓となり彼の家臣団となった。しかし、奔放な性格が目立ち、男色家となって小姓たちを侍らせ、頻繁に市中徘徊し、女装すら好み、そんな彼をとくに青山忠俊は諫めた。
公式の場に出ることも多くなり、家康の死去で延期されていた元服は元和6年(1620年)になされ、「家光」となった。元和9年(1623年)には摂関家の鷹司家から鷹司孝子を正室に迎えたが、その夫婦仲は当初から険悪ですぐに事実上、離縁状態になった(とはいえ、孝子の弟の信平が出家を嫌がって江戸に赴いた際、家光に大歓迎され旗本に取り立てられた事実なども鑑みて、決して酷く不仲だったわけでもない、という説も出てきている)。
将軍と治世
元和9年(1623年)、父・秀忠より将軍職を引き継ぐ。この時に家光は「祖父・家康も、父・秀忠も他大名の力を借りて将軍になったが、私は生まれながらの将軍である」と発言している。とは言え、秀忠が江戸城西の丸で大御所として天下の実権を握る二元政治が続いた。
寛永9年(1632年)に秀忠が死去し、家光は公方として親政を開始。駿河に54万石の所領を持つ弟・忠長は粗暴であるとして秀忠に既に改易されていたが、翌寛永10年(1633年)、忠長は自刃に追い込まれた。
戦国時代の不穏な空気がいまだ残るなか、家康を模範に施政に取り組み、幕府の統治体制を固めはじめる。老中・若年寄・奉行・大目付の制を定めて現職将軍が最高権力者とする幕府機構を、寛永12年(1635年)の武家諸法度の改訂で参勤交代を制度化して幕藩体制を確立。各地では藩の転封や改易が頻繁にされ、強権的な統治は「武断政治」と呼ばれた。
寛永11年(1634年)に人生3度目の上洛を果たし、後水尾上皇に拝謁して、「紫衣事件」以来悪化していた朝廷との関係回復に努めた。
対外政策ではキリスト教禁制とともに貿易の統制と管理を強め、東南アジアとの朱印船貿易もやめた。
寛永14年(1637年)、家光の治世で最大の危機が起こる。天草と島原で領主の圧政に耐えかねた百姓が一揆を起し、天草四郎をはじめとするキリシタンや行き場を失った浪人たちも合流して、大規模な一揆「島原の乱」に発展。幕府は鎮圧軍を派遣するも総大将の板倉重昌が戦死し、次に老中の松平信綱が解決を担い、鎮圧に成功。これを機にポルトガルと断行し、オランダ商館を出島に移転。いわゆる海外で「鎖国」と呼ばれた体制が完成された。
幕府基盤も安定化したと思われたが、寛永19年(1642年)に治世最後の危機となる「寛永の大飢饉」が起こり、様々な飢饉対策を各藩に直接指示し、翌年には田畑永代売買禁止令を出して農民統制を図った。
慶安4年(1651年)4月、死去。享年48歳。異母弟の保科正之に長男・徳川家綱を託した。
その死後間もなく、由井正雪による幕府打倒計画「慶安の変」が発覚。島原の乱においても幕府による多くの改易から大量の浪人を生んだことから招いたもので、幕府はむやみに改易しないよう方針転換を迫られ、「文治政治」と変わっていく。
人物と逸話
二世権現
家光は自分の味方となってくれた祖父の家康を尊敬し、一方で実父である秀忠に対して扱いは軽かった。そのきっかけとなったのが駿府城での出来事だった。春日局から家光の不遇を知った家康は一計を案じ、秀忠一家や家臣たちが訪れた際に、広間で上座に座っていた家康は家光を招いて膝に乗せたが、続いて近寄る忠長を厳しく制止し、「ここに座るのは将軍になる資格ある者のみである」と述べ、一同に家光こそ徳川家の世継であると宣言した。これは史実か不明な巷説だが、少なくとも元和年間に家光が世継として決定したとされる。
その後、家光は自らを「二世権現」であると称し、お守袋にもその号を書いた紙を入れていた。また家康の霊夢を度々見たとされ、その姿を絵に残させている。家康信奉の一つとして日光東照宮の造営を進めたが、これらは上洛の時とともに家康以来の蓄財を浪費する結果になった。
男色と大奥
幼い頃から男色趣味が盛んだったが、行き過ぎで女性に興味を示さなかった。春日局をはじめ家臣たちは女性に興味を持たせようと苦労し、その甲斐あって後に将軍となる家綱や綱吉が生まれ、また多くの女性たちが集う「大奥」も完成された。
親は春日局?
歴代将軍の正室(御台所)が産んだ中で唯一将軍になれた人物なのだが、実母に嫌われ、乳母に大事にされ、家康が味方したことから、本当の実父は家康で、実母は春日局とする異説もある。歴史学的に見れば根拠の乏しい与太話だが、当時から家光の境遇故にすでにそのような噂話が広まっていた。
市中徘徊と活人剣
奔放だった青年期は暴れん坊将軍さながらに、お忍びで町に出たりすることが多かったため、家臣が雇った屈強な男たちと喧嘩することも屡々だったとか。ついには平気で刃傷沙汰や辻斬りを度々起こしたほどだった。そこで家康に仕えていた柳生宗矩が兵法と剣術の指南役となり家光を指導。柳生新陰流を開いた宗矩は自ら提唱した「活人剣」を教え、むやみに人を殺さず人を活かすよう覚えさせた。
その他
- 自ら絵を嗜み、ウサギや鳳凰の絵を描いたが、かなりの独特な画風となっている。
- 年の近い叔父(祖父・家康の末子)である徳川頼房とは仲が良く、よく二人で悪さをしていた。
- 猫の放し飼いを許可した人物でもあるが猫将軍とは呼ばれていない。
- 鎖国と兄弟相克のマイナスイメージからあまり良い印象を持たれておらず、創作では悪役的な役回りを演じさせられるケースが多々ある。
- これは史実やその要素を持った作品に限らずネット小説全般における『過去の成功や威光に固執し、他者の意見に耳を貸さず頑固や懐古、短絡的な思考で国を傾ける腐敗した王侯貴族』のモチーフは大体家光(と大奥)と言える。
- しかし大奥に関しては徳川秀忠の時代に既にあった物であり、家光に関しては風評被害と言えるだろう。
- 作家の海音寺潮五郎は「家康は全て自分で決めた。秀忠はそれには及ばなかったが半分は自分で決めた。家光は全て重臣任せであった」と、家光の治世は祖父や父の築いたもののおかげと分析し、家光個人については低い評価をしている。
男系子孫は曾孫である7代将軍・家継と松平清方(6代将軍・家宣の弟・松平清武の長男)の死によって断絶したが、女系子孫は唯一の娘である千代姫が尾張徳川家2代当主・徳川光友に嫁いだことで、後々には昭和天皇以降の皇統に繋がることになった。
創作での家光
幕府開祖の家康、享保の改革や大岡越前がらみの徳川吉宗、最期の征夷大将軍である徳川慶喜ほどではないが出番は多く、主人公として抜擢されることもある。
暴れん坊将軍休止期間中に放映されていた将軍お忍び時代劇。主演は三田村邦彦
彼と忠長の後継ぎ争いに、甲賀と伊賀が利用されてしまう。
冒頭でちょい役で登場。本作のヴィランである荒淫残虐で暗愚な暴君加藤明成に呆れかえりつつ、彼の手下に不穏な空気を感じ取っている。
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