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概要

静岡県静岡市葵区にあった城で日本100名城に選定されており、府中城静岡城とも呼ばれる 。


1585年(天正13年)に駿河国を支配した徳川家康今川館の跡地に築城し居城とした。 
1590年(天正18年)に家康が関東へ移封されると豊臣家家臣の中村一氏が入城した。

関ヶ原の戦いの後、家康の異母弟である内藤信成が城主を務めたが、

1607年(慶長12年)、家康は将軍職を徳川秀忠に譲ると再び居城を移し、天下普請によって拡張・大改修が行われ三重の堀を持つ大城郭へと整備された。

しかし、完成間近に城内からの失火により焼失。直ちに再建工事が開始され1610年(慶長15年)に六重七階の天守や本丸御殿が完成した。

家康はこの駿府城で大御所として実権を握り、駿府は江戸と並ぶ政治・経済の中心として栄えた。

1609年(慶長14年)に家康の十男、徳川頼宣が城主となったが家康没後の1619年(元和5年)紀州和歌山に転封。

1624年(寛永元年)に三代将軍家光の弟、徳川忠長が城主となったが、のちに忠長は上州に蟄居を命じられ自刃した。

1633年(寛永10年)以降は明治維新まで幕府の直轄地となり駿府城代が置かれたが、1635年(寛永12年)に城下で発生した火災が城に延燃し大部分が焼失。御殿や櫓、城門などは再建されたが天守が再建されることはなかった。

明治時代になると、陸軍歩兵第34連隊の駐屯地になり天守台や内堀など城の大部分が破壊されてしまった。

現在、城跡は駿府城公園として整備されており櫓や城門が復元されている。

余談

江戸時代の随筆「一宵話」によると1609年、駿府城の中庭に肉塊のような者が現れたという。小児くらいの大きさで手はあるが指はなく肉人とでもいうべき者だった。捕まえようとしたがすばやく動いて捕まえられず家康が、その者を外へ追い払うよう命じたため、捕獲をあきらめ城から山のほうへと追い出したという。

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