生没年 1602(慶長7)年~1671(寛文11)年
官位 従二位 権大納言
経歴
1603(慶長8)年、五兄である武田信吉の遺領、常陸水戸20万石を与えられる。
その後1609(慶長14)年に駿河駿府50万石、1619(元和5)年に紀伊和歌山55万石に移される。
武辺的な性格ゆえに幕閣からは警戒されがちなようで、1651(慶安4)年の慶安の変で首謀者の由井正雪の遺品から、頼宣の関与をほのめかす書状が見つかったことで、10年間和歌山への帰国を許されなかった(書状自体は偽造と判断された)。そのために増築中の和歌山城の工事を中止せざるを得なくなった。
1671年に死去。跡を長男の光貞が継いだ。
逸話
- 尾張徳川家・徳川義直と、通し矢の代理戦をしている。通し矢とは、三十三間堂で行われたブラッドスポーツ。深川の三十三間堂の距離は121mと、アーチェリーの70mより51m長い距離で競技していた。記録の破れなかった弓道家は次々と責任を取って切腹したので、各地の大名は手を引いた。しかし紀伊徳川家・徳川頼宣、尾張徳川家・徳川義直のみ引かず、意地でも記録打破に注力した。