尾張徳川家
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おわりとくがわけ
尾張徳川家とは御三家の一つ。
家康の九男義直が尾張国清州に移動し後に名古屋に移り名古屋城を創建したことで始まる。石高は61万石。
後に義直の血筋が途絶えた後、幕府から御三卿より養子を送られたことで不満を持つようになる。幕末の当主慶勝は公武合体や長州征伐などに参加した。
- 梁川松平家
1683(天和3)年に2代当主光友の庶長子(扱い上三男)義昌が陸奥梁川(福島県伊達市)3万石を与えられ立藩した。1729(享保14)年5月に義昌の孫で3代当主の義真が早世したことで一旦改易となったが、同年8月に本家3代当主綱誠の子である通春が入部し再興された。
しかし1730(享保16)年、兄で本家6代当主継友が死去したことにより7代当主宗春となったことにより再度廃藩となった。
1681(天和元)年に光友の次男義行が信濃高井3万石を与えられ立藩し、1700(元禄13)年に美濃高須(岐阜県海津市)へ移封された。幕末まで続き明治維新後子爵に叙爵されたが、その間3代当主の義淳が本家8代当主宗勝として、10代当主義建の次男義恕が本家14・17代目当主慶勝として、五男義比が本家15代目当主茂徳(後に茂栄)として相続した(茂栄は後に一橋慶喜に代わって一橋徳川家を相続した)。また義建の七男は会津藩主となった容保、九男は桑名藩主ととなった定敬で戊辰戦争の中心人物となった。
- 川田窪松平家
1693(元禄6)年に光友の十一男友著が5,000石(後15,000石)を内分され立藩した。1732(享保17)年に嫡男で2代当主の友淳が高須家を継いだために断絶した。上述した後の松平義淳→徳川宗勝である。
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