概要
尾張徳川家の分領である陸奥梁川藩(現在の福島県伊達市)藩主だったが、兄である尾張第6代藩主継友が没したため、それを受け継ぐ形で第7代藩主となる。
この際徳川吉宗から偏諱を授かり「通春」から「宗春」に改名している。
名古屋城への入府に当たっは鼈甲製の笠と黒づくめの衣装を纏った非常に派手な装束だったと伝えられている。
藩主となった後は吉宗の享保の改革の「質素倹約」に真っ向から歯向かうように華美絢爛を好み、名古屋藩では「規制緩和」を行わせた。単に自分が贅沢を楽しんだわけではなく、地元民を巻き込みお祭り騒ぎを何度も催したのが特徴である。
特に有名なのが「白い牛にまたがり長ギセルを咥えた悠々とした姿」だろう。これらはいずれも地元産であり、尾張の「地産地消」に自ら取り組んでいたことが窺える。
ただし、幕府と対立していたわけではなく吉宗から下された命令自体は遵守しており、正式な場では華美な服装は来ていないなど別に傾奇者というわけではない。破天荒な姿の多くはあくまで「民衆に対するパフォーマンス」なのだろう。
吉宗の倹約政策を暗に批判するような文書を出したりして吉宗に睨まれることも多かったが、彼の政策を反映した名古屋の町は、倹約政策で他の都市が停滞していたことを差し引いても大きく繁栄し、「名古屋の繁栄に興(京)が冷めた」とまで言われた。
一方で、それだけのばらまき政策を行った代償は大きく、尾張藩の財政は赤字化、さらには慌てて領内の緊縮財政を行うが、「話が違う」と領民からの反発を招く。
最終的には宗春の暴政を危惧した国元の藩家老たちや、時の幕閣の思惑が一致し、1739年に宗春は隠居謹慎を命じられ、その後終生にわたって名古屋城三の丸にて不自由な身ながら余生を過ごした。宗春の後を継いだ徳川宗勝が藩主に就任した後はかつての倹約令が復活し、財政再建を優先したため、名古屋の賑わいは失われて復活まで多大な時間がかかったと言われる。
宗春は隠居から25年後の1764年に69歳で世を去った。だが、その墓にはしばらく網がかけられるという目に遭い、その死後75年経った1839年に名誉回復されるまで続いたという。
現在の名古屋の下地を作った人物の一人なのは間違いないが、彼の政策自体は後世にほとんど受け継がれておらず総合的な評価は難しい。
一般に名君とされる吉宗に反発したことで対比されるように「贅沢に耽る暗君」とされることも多いが、少なくとも「自分が贅沢をしたかったから」金を使っているわけではないのでそのような評価は誤りと言え、「自由経済」を行おうとした点では一定の評価はある。
宗春自身の政治信念として「温知政要にある二十一箇条」があり、「庶民感覚の重視」「冤罪の忌避」「諸芸への理解」「規制の最小限にするべき」といった庶民視線を重視するものが多い。吉宗が幕府再建を重視した政治なら宗春は庶民重視の慈愛の政治だったのかもしれない。
吉宗の死後、先祖の墓参りを許されて外出した際には領民が宗春の藩主時代に配った思い出の提灯を持ち出して出迎えたというエピソードも残されており、領民からは好かれていた事が窺える。
ちなみに吉宗との個人的な関係は悪くなかったらしく、幽閉後も吉宗は宗春に対して丁寧に気色伺いを何度も行っている。宗春も吉宗から下賜された朝鮮人参を栽培するなど、政策面の様な対立はない。
創作物での宗春
吉宗を主人公とした暴れん坊将軍では、かつて将軍になれなかった事を妬み、吉宗を逆恨みして追い落としを画策する人物として登場。
彼の手下が「上様の首を宗春公に」と発言することもある。また、失敗しても「わしは知らん。部下が勝手にやった」と言い訳する様な狭量な人物で、吉宗から叱責されても反省する事は無く次も策謀を巡らせる事を示唆するシーンで終了というパターンがお決まりとなる。
演じている俳優が松平健よりも年配が演じているため、年上イメージがあるが実際は宗春が12歳も年下である。そもそも宗春の藩主就任は吉宗治世後半の時期であり、それまでは部屋住みとして単なる予備扱いを受けていた経歴の持ち主。そのため、吉宗と将軍争いをしたという構図がまずあり得ない。
……という経歴・年齢・人格が全く違うため、もはや名前を借りただけの別人の様な状態であり、史実ではない。また宗春暗君イメージの原因かもしれない。