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徳川宗春

とくがわむねはる

尾張藩第7代藩主。政策面に関しては8代将軍・徳川吉宗と対立した。
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尾張藩7代目藩主。政策面に関しては8代将軍・徳川吉宗と対立した。


プロフィール編集

生没年:1696年(元禄9年)~1764年(明和元年)

幼名:萬五郎

極官:従三位権中納言

通称:求馬

諱:通春→宗春


概要編集

尾張藩3代目藩主・徳川綱誠の二十男。幼名は萬五郎。萬五郎が4歳だった1699年に父・綱誠が病死。さらに18歳だった1713年の時に4代藩主になっていた十兄・徳川吉通さらに5代藩主になった甥で吉通の嫡子の徳川五郎太が立て続けに病死し同年に十一兄・徳川通顕が継友と改名して6代藩主となった。萬五郎は同年12月に元服し、諱を通春とし通称を求馬に改めた。その後、尾張藩の分領である陸奥梁川藩(現在の福島県伊達市)藩主となった。35歳だった1730年に継友が病死したため尾張藩7代藩主となる。

この際将軍・徳川吉宗から偏諱を授かり「通春」から「宗春」に改名している。

名古屋城への入府に当たった際は、鼈甲製の笠と黒づくめの衣装を纏った非常に派手な装束だったと伝えられている。


藩主となった後は吉宗の享保の改革の「質素倹約」に真っ向から歯向かうように華美絢爛を好み、名古屋藩では規制緩和を行わせた。単に自分が贅沢を楽しんだわけではなく、地元民を巻き込みお祭り騒ぎを何度も催したのが特徴である。

特に有名なのが「白い牛にまたがり長ギセルを咥えた悠々とした姿」だろう。これらはいずれも地元産であり、尾張の「地産地消」に自ら取り組んでいたことが窺える。

ただし、幕府と対立していたわけではなく吉宗から下された命令自体は遵守しており、正式な場では華美な服装は来ていないなど別に傾奇者というわけではない。破天荒な姿の多くはあくまで「民衆に対するパフォーマンス」なのだろう。


吉宗の倹約政策を暗に批判するような文書を出したりして吉宗に睨まれることも多かったが、彼の政策を反映した名古屋の町は、倹約政策で他の都市が停滞していたことを差し引いても大きく繁栄し、「名古屋の繁栄に興(京)が冷めた」とまで言われた。

一方で、それだけのばらまき政策を行った代償は大きく、尾張藩の財政は赤字化、さらには慌てて領内の緊縮財政を行うが、「話が違う」と領民からの反発を招く。

最終的には宗春の暴政を危惧した国元の藩家老たちや、時の幕閣の思惑が一致し、1739年に宗春は隠居謹慎を命じられ、その後終生にわたって名古屋城三の丸にて不自由な身ながら余生を過ごした。宗春の後を継いだ徳川宗勝が藩主に就任した後はかつての倹約令が復活し、財政再建を優先したため、名古屋の賑わいは失われて復活まで多大な時間がかかったと言われる。


宗春は隠居に追い込まれてから25年、吉宗が逝去してから13年、さらに9代将軍だった徳川家重が逝去してから3年後となる10代将軍徳川家治の代になっていた1764年に69歳で世を去った。だが、その墓にはしばらく網がかけられるという目に遭い、その死後75年経ち従二位権大納言を贈られた1839年に名誉回復されるまで続いたという。


現在の名古屋の下地を作った人物の一人なのは間違いないが、彼の政策自体は後世にほとんど受け継がれておらず総合的な評価は難しい。

一般に名君とされる吉宗に反発したことで対比されるように「贅沢に耽る暗君」あるいは「吉宗の警告を無視してばらまき政策を行い隠居謹慎に追い込まれたバカ殿」とされることも多いが、少なくとも「自分が贅沢をしたかったから」金を使っているわけではないのでそのような評価は誤りと言え、「自由経済」を行おうとした点では一定の評価はある。

宗春自身の政治信念として自らが著した『温知政要』にある二十一箇条があり「庶民感覚の重視」「冤罪の忌避」「諸芸への理解」「規制の最小限にするべき」といった庶民視線を重視するものが多い。吉宗が幕府再建を重視した政治なら宗春は庶民重視の慈愛の政治だったのかもしれない。

吉宗の死後、先祖の墓参りを許されて外出した際には領民が宗春の藩主時代に配った思い出の提灯を持ち出して出迎えたというエピソードも残されており、領民からは好かれていた事が窺える。


ちなみに吉宗との個人的な関係は悪くなかったらしく、幽閉後も吉宗は宗春に対して丁寧に気色伺いを何度も行っている。宗春も吉宗から下賜された朝鮮人参を栽培するなど、政策面の様な対立はなかった。


フィクションにおける徳川宗春編集

民放ドラマ編集

演:中尾彬成田三樹夫西岡徳馬

将軍になれなかったことを妬み、吉宗を逆恨みして追い落としを画策する人物として登場。

彼の手下が「上様の首を宗春公に」と発言することもある。また、失敗しても「わしは知らん。部下が勝手にやった」と言い訳する様な狭量な人物で、吉宗から叱責されても反省する事は無く次も策謀を巡らせる事を示唆するシーンで終了というパターンがお決まりとなる。

吉宗役の松平健よりも年長の悪役俳優である中尾・成田・西岡が演じていたため、年上イメージがあるが実際は宗春が12歳も年下である。そもそも宗春の藩主就任は吉宗治世後半の時期であり、それまでは部屋住みとして単なる予備扱いを受けていた経歴の持ち主。そのため、吉宗と将軍争いをしたという構図がまずあり得ない。また「尾張大納言」と称されたが先述の通り宗春は生前に大納言になっていない……というように経歴・年齢・人格が全く違うため、もはや名前を借りただけの別人の様な状態であり、史実ではない。また宗春暗君イメージの原因かもしれない。


  • 新・暴れん坊将軍

演:GACKT

『暴れん坊将軍』放送終了後、17年ぶりに放送された2025年の新春スペシャル時代劇。

吉宗が還暦。演じる松平が71歳。宗春48歳、演者GACKT51歳と後述の『八代将軍吉宗』同様、史実に近い設定となった。

馬にまたがり、長い煙管を肩にかけながらの登場シーンや、ド派手な赤の着物姿で視聴者に強烈なインパクトを与えた。

派手な行動や最後のオチはある意味史実通りとも。

ちなみにネット上では家来はGACKT繋がりであの二人ではなどとも言われた。


NHK大河ドラマ編集

演:中井貴一

当時の吉宗役の西田敏行が48歳、宗春役の中井が34歳であり民放も含めて宗春役の演者が吉宗役の演者よりも年下となった。



関連項目編集

尾張 尾張徳川家 尾張藩

名古屋

徳川吉宗


柳沢吉保…同じく有名なテレビドラマの影響により、悪党のイメージが定着してしまった不幸な人。

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