概要
尾張国の大半を治め、信濃・三河・美濃にも領地を持っていた。支藩として高須藩がある。御三家のひとつ。広大な平野があり木曽の檜林も持っていたことから財政は豊かだった。
元々は徳川家康の四男である松平忠吉が関ヶ原の戦いの功績により、52万石を与えられ清洲城を本拠としたのが発端であった。
しかし1607(慶長12)年に忠吉が急死しした後に、甲斐甲府25万石を治めていた異母弟の義直が入部した。この際に清洲城が破棄され、名古屋城が築城され新しい本拠地となった。
御三家の中では一番の長兄である義直の藩であるが、将軍を輩出することは出来なかった(一五代将軍・慶喜は水戸藩出身ではあるが、一橋家に養子に出ていたため形式上「一橋家出身の将軍」となる)。特に七代将軍・家継が急逝した際、将軍になる可能性が最も高かったのは尾張藩の徳川継友(義直の曾孫)だったが、選ばれたのは紀州藩の徳川吉宗だった。
藩の歴史の中でも特徴的なのが継友の弟である次代当主の徳川宗春だ。宗春は自ら派手な恰好をし、芸能を奨励して開放的な政策を行い経済を活性化した。藩の財政は悪くなったが名古屋の街には活気があふれた。しかし当時の将軍である徳川吉宗は質素倹約を徹底するなど宗治とは真逆ともいえる政策をとり、幕府の財政は改善したが景気は悪くなった。現在の感覚で言えば明らかに宗春の政策のほうが正しいが、将軍に逆らうような行動をとった宗春は隠居させられてしまった。
10代当主・斉朝以降、将軍家から半ば押し付けの形で養子を当主として送られていることから、藩内には次第に不満が募っていき、戊辰戦争は新政府側についた。
歴代藩主
- 徳川義直
- 徳川光友:義直の長男
- 徳川綱誠:光友の長男
- 徳川吉通:綱誠の九男
- 徳川五郎太:吉通の長男
- 徳川継友:綱誠の十一男
- 徳川宗春:綱誠の十九男
- 徳川宗勝:光友の十一男・松平友著の長男
- 徳川宗睦:宗勝の次男
- 徳川斉朝:十一代将軍・徳川家斉の弟・治国の長男。吉通の娘・千姫の曾孫。
- 徳川斉温:家斉の十九男
- 徳川斉荘:家斉の十二男
- 徳川慶臧:家斉の弟・斉匡(田安徳川家当主)の十男
- 徳川慶勝:美濃高須藩(支藩)主・松平義建(水戸藩主・徳川治保の孫)の次男
- 徳川茂徳:義建の五男
- 徳川義宜:慶勝の三男、廃藩置県により尾張藩知事。
- 徳川義礼:讃岐高松藩主・松平頼聰(水戸藩主・徳川治紀の孫)の次男。侯爵
- 徳川義親:越前福井藩主・松平慶永(斉匡の八男)の四男。
- 徳川義知:義親の長男