概要
封建制のもとで、各地域を治める大名が国の政治の中心となっている場所(主に幕府)と各自の領地を行き来することを指す。最初に行われたのは鎌倉時代ごろ。江戸時代のものが有名だが、封建制で広い地域をひとつの国としてまとめるには必要不可欠の制度のため、武士の時代には断続的に行われた。幕府がほとんど機能していない時代では行っても意味がないので行われていない。豊臣秀吉が天下統一した幕府の存在しない桃山時代にも同様の仕組みはあった。封建制ではない場合は参勤交代とは言わない。
江戸時代の参勤交代
日本各地の藩主が一年おきに江戸と領地を行き来した。大名行列が通っている間は、庶民は頭を上げてはならず土下座をしていなければならないという情報が広まっていたこともあるが大間違いで実際はそんなに厳しくはなかった。庶民が大名行列を見物するためのガイドブックまで作られていたほどである。大名行列には藩の力を見せつける軍事パレードの側面もあり、市街地を通るときだけ人員を雇い行列を豪華に見せていた藩もあった。先頭が街から出たのに最後尾はまだ街に入っていないということもあった。
とはいえ、庶民が大名行列を横切るのはやはりタブーであり、産婆や飛脚という緊急の可能性のある職業を除いては、たとえ子どもであったとしても無礼打ちにされる恐れがあった。
幕末に起きた有名な「生麦事件(1862年)」は、イギリス人が馬に乗って島津久光の行列を横切り、侍たちの再三の制止にもかかわらずそのまま行列を突っ切り乗馬したまま藩主の乗った籠に急接近したのが原因とされており、欧米諸国であっても殺されてもおかしくない事件であった。
当のイギリス人はその後行列から離れたものの、同行していた藩士に即座に追いかけられ無礼打ちされたというのが真相であったらしい。
またこのイギリス人には、居留地や周囲の同胞たちから何度も「(当時は攘夷運動が過激な時期であるため)外出は危険だ」「大名行列は横切るな」と注意されており、当時来日していた他国の外国人たちも、「大名行列は横切るな、通りすがったらこちらが道を譲れ」「乗馬していたら馬を降りて礼をしろ」といった記録があるため、「大名行列に対しては特別な礼をとらないといけない」ということは当時の外国人に対しても広く周知されていたらしい。
すべての藩が行っていたわけではなく、小規模な藩は江戸に常駐(江戸定府)していることもあった。水戸藩は大規模ながら例外的に江戸定府だった。
また、幕府は各藩が召し抱えるべき人数と江戸との往復に大名がつれていく従者を「武家諸法度」で厳しく定めていた。江戸と領地の行き来は当然ながらその法令に従わねばならず、参勤交代のある1,2万石の小大名よりも参勤交代のない5000石の旗本のほうが裕福といわれるくらい、参勤交代の費用は幕命による工事負担とともに各藩に重くのしかかることとなった。
藩主の家族は人質として江戸に住んでいた。人質といっても誘拐犯の人質とは全く異なるもので、脅されるわけではなくごく普通に暮らしていた。この制度をうまく利用して、正室は江戸に、側室は領地に住まわせていた藩主も多い。
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超高速!参勤交代
参勤交代を題材にした小説、その後映画化もされた。
鞠と殿様…参勤交代を歌ったとされる童謡。歌詞にある「紀州の殿様」とは紀伊藩主時代の徳川吉宗であるといわれている。