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概要編集

幕末に起こった事件の一つ。現地住人の届け出書・神奈川奉行所の役人の覚書・当時イギリス公使館の通訳見習だったアーネスト・サトウの日記などに、事件の詳細が記されている。それによれば経緯はこうである。


文久2年(1862年)9月14日、島津久光は700人の部下を率いて江戸に向かったが、その道中生麦村(現在の横浜市鶴見区)にて4人の騎馬のイギリス人と行き会った。

薩摩藩士たちは身振り手振りで下馬し道を譲るように説明したが、イギリス人たちは「わきを通れ」と言われただけだと思い込み、行列がほぼ道幅いっぱいだったため、彼らはどんどん行列の中を逆行して進んでしまった。

遂には久光の乗る駕籠のすぐ近くまで馬を乗り入れ、供回りの声に流石にまずいとは気づきはしたが、今度は「引き返せ」と言われたと受け取って馬からは降りず、馬首をめぐらそうとして辺りに構わず無遠慮に動いてしまう。


これを久光に対する無礼(さもすれば襲撃しようとしている)と受け取った薩摩藩士の奈良原喜左衛門率いる他数人の藩士が抜刀して斬りかかり、その中の一人・チャールズ・リチャードソンに致命傷を負わせた。

4人は必死に馬を駆りて、滞在先であった横浜の外国人居留地へと逃れようとしたものの、リチャードソンは手傷が深かった事からまもなく落馬し、追いかけてきた藩士海江田信義の手でとどめを刺された。同伴していた3人の内の2人もやはり斬りつけられて重症を負うも幸いにも致命傷に至る事はなかった。残る1人の女性は辛うじて帽子と髪を切り落とされただけで済んだが、この事件がトラウマとなって後に精神を病んでしまった。


この事件の処理は大きな政治問題となり、そのもつれから、文久3年7月に薩摩藩とイギリスとの間で薩英戦争が勃発した。


かつては事件現場を示す説明版が旧東海道沿いに掲示されていたが、現在は撤去されている。


余談編集

  • 実はリチャードソン一行の前に、アメリカ人商人ユージン・ヴァン・リードが行列に遭遇している。彼は日本の習慣を熟知していたため、大名行列を乱すことが大変な非礼だと知っており、久光一行に対し『馬を道の脇に寄せ、自身も馬から降りて、行列に向かって脱帽しながら一礼する』という完璧な形で礼儀を示した。そんなことがあったばかりなので、リチャードソンらの行動がより無礼に映ったとしてもおかしくない。リード自身も後に事件を知った際にはリチャードソン一行の傲慢さや軽率さに非があったと非難する声明を発していた。
  • 同国の女性宣教師マーガレット・バラは、「幕府の役人からは東海道を大名行列が通過する旨、その為当日は道の利用を控える通告は事前に為されていた。なのにリチャードソンらはそれらを無視して行ってしまったそうです」と証言する。
  • リチャードソンの鈍感な振る舞いは海外の目から見ても非常識に映ったらしく、リードは無論、オランダ人医師メーデルフォールトがリチャードソンの叔父という人に聞いた話でも「チャールズは頑固で向こう見ずな性格だった。いつかその気性で身を滅ぼすのではないかと思っていた」と嘆息したと言う。
  • リチャードソン自身は親孝行で物静かな普通の人物だったが、反面、来日前に滞在していた中国では些細な事から現地の子供に暴行を加えた事で罰金刑に処せられる等、東洋人を下に見ている一面もあったといい、その為か事件時の彼に対する一般的な見方は総じて「空気を読まないアホ」だった。このように事件が起きた背景には日本と西洋の文化の違いというより、リチャードソン自身の短所と無知が招いた悲劇もあると考えられる。
  • 事件を報道した当時のニューヨークタイムズですら「この事件の非はリチャードソンにある。条約は彼に在居と貿易の自由を与えたが、日本の法律や慣習を犯す権利を与えたわけではない」と記している。

関連タグ編集

江戸時代 幕末 攘夷

日本 イギリス 薩摩藩

薩英戦争

薬丸自顕流…騎乗のイギリス人を斬った技は、「抜き」と呼ばれる下段からの抜刀術だった。

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