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佐久間象山

さくましょうざんまたはぞうざん

文化8年~元治元年 信濃松代藩士。名は啓(ひらき)・大星(たいせい)、字は子迪(してき)・子明(しめい)。象山と号した。
目次 [非表示]

人物

信濃松代藩の藩士で、当時の藩主真田幸貫に仕えた。賤ヶ岳の戦いに敗れ斬られた佐久間盛政の弟で初代飯山藩主・佐久間安政の子孫を称した。さらに言えば先祖は北条義時に滅ぼされた和田義盛にまで遡る。

信州松代のど田舎で、下級武士の長男として誕生。啓之助は啓蒙しまくるかなりのクソガキであったらしい。そして近所の子供と遊んでいて喧嘩になったときはよく石を拾って投げつけたため、「石投げ小僧」とあだ名され気づけば遊び友達がいなくなっていた。あるとき、石を投げられた子供の親が佐久間家に怒鳴り込みに行ったが、啓之助は自分が石を投げつけた子供のことをさんざん貶し、「子供が子供なら親も親だ」とまで言い放ったという。


佐藤一斎の門に入って朱子学を学び、また蘭学砲術を修めた。この頃の学友(っつーかケンカ友達というか、とにかく舌戦の宿敵)に山田方谷がいる。


早くから開国論を唱え、西洋の科学技術の導入を主張、江戸の私塾象山書院や深川の松代藩邸で教え、勝海舟吉田松陰橋本左内坂本龍馬らが学んでいる。

ちなみに海舟の妹・順子を妻にしている。つまり、年齢は海舟より上だが、戸籍上は象山は海舟の義弟にあたる。

彼自身、地震計や電気医療器、電信機を製作し、洋服も着用したと伝えられる。また、写真の研究も行っており、象山自身の写真と同じ日に撮影したと思われる順子、前妻との間の子である三浦啓之助の写真が残されている。

しかし、幕府朝廷に再三、開国策公武合体論を説いたため攘夷派の恨みを買って、京都で白昼堂々、河上彦斎に暗殺された。

『象山先生詩抄』『荷蘭語彙』などがある。

象山は西洋の技術の高さは正当に評価していたが、道徳面においては儒学の思想を重んじていたという。


なお名前については「ぞうざん」説と「しょうざん」説がある。生家の近所にあった山の「象山」から取ったそうである。


正面から見ると、顔がでかくて耳が見えない。


創作の佐久間象山

  • 風雲児たち」において、「まずナポレオンならボクに引けは取るまい」と豪語する男として描かれるが、史実でも傲岸不遜な自信家でトラブルメーカーな一面もあった。
  • JIN-仁-では主人公・南方が佐久間象山の治療にあたる。佐久間は今際のとき、21世紀の幻を見る。南方は佐久間の見た幻の仔細を聞こうとするが、佐久間は息絶えてしまう。作中でも印象的な場面となっている。

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江戸時代 幕末 学者

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