概要
江戸時代の末期(幕末)における徳川幕府の幕臣であり、伊豆の韮山代官を務めていた。「太郎左衛門」の通称でも有名で、これは江川家で代々受け継がれている名前である。
人物
大和源氏嫡流は平安後期の源親治(宇野七郎)の代から宇野を称したがのち江川を称するようになったという。
父・英毅は、商品作物の栽培による増収などを目指し民治に力を尽くした人物として知られ、彼もまた民衆想いで施政の公正に勤め、二宮尊徳(金次郎)を招いて農地の改良などを行い、嘉永年間には天然痘を予防するため、牛痘を人体に接種する種痘(現在で言うところの予防接種)の技術が伝わった際に、領民への接種を積極的に推進した。こうした経緯から、領民から『世直し江川大明神』」と呼ばれ敬愛されていた。
幕末において日本近海に外国船がしばしば現れるようになった際には、西洋における近代的な沿岸防備の手法に強い関心を抱き、鉄を精錬する金属融解炉の一種である反射炉を築き、日本に西洋砲術を導入し、普及させたことでも知られ、江戸に「江川塾」を開いて全国の藩士たちに教育し、教え子には佐久間象山、大鳥圭介、橋本左内、桂小五郎(木戸孝允)、黒田清隆、大山巌、伊東祐亨など、明治維新に関わりある偉人たちが多くいた。
また、国防意識が強く海防論や農兵による自警活動を推し進め、それにより彼の治める地域であった多摩では現地発祥の天然理心流を学ぶ者が増え、そうした政策の関係で土方歳三の義兄である佐藤彦五郎と親しく、そのため土方は彼を通じて江川から農兵構想を学んでいたとされており、それが新撰組の創設へと繋がっていったとされている。
責任感溢れる人物で、幕末の初期は黒船の来航で上を下への大騒ぎの中、開明的な案を出しその実現に取り組むも過労がたたってこの世を去る。享年55歳(数え年)。死の当日、江川は体調不良を押しきって出立しようとした。妻や使用人が制止するなか、「馬だッ」(江戸城へ出勤するために馬を出せ、の意)と叫び昏倒し亡くなった。後半は幕府にこき使われ続けた生涯であった。