概要
1843年6月17日〜1914年1月16日
海戦において、戦場で直接陣頭指揮に当たった数少ない連合艦隊司令長官である。
略歴
薩摩藩出身で、江川英龍の下で砲術を、勝海舟が開いた神戸海軍操練所で坂本龍馬や陸奥宗光とともに航海術を学んだ。明治維新に際しては新政府軍の海軍に属して戊辰戦争に従軍した。
明治維新の後、大日本帝国海軍に入り、佐官時代に日進、龍驤、扶桑、比叡、浪速の艦長を務めた後、海軍少将に昇進、海軍大学校長を経て海軍中将に昇進した。
海軍中将に昇進した後は、1893年に大日本帝国海軍の主力艦が所属する常備艦隊司令長官になった。
常備艦隊司令長官に着任した翌年に日清戦争が勃発、連合艦隊が組織され連合艦隊司令長官兼常備艦隊司令長官に就任した。
日清戦争
日清戦争では、本土の基地で指揮を執っていた他、防護巡洋艦の松島(排水量4277トン)を連合艦隊旗艦として黄海海戦と威海衛の戦いに直接参加している。
このときの敵は、当時アジア最強の名をほしいままにしていた清国海軍の北洋艦隊で、さらに日清戦争にあたって清国海軍が保有する他の三つの艦隊から艦が引き抜かれて戦力の強化が図られていた。
その戦力、装甲艦2隻、装甲巡洋艦3隻、防護巡洋艦5隻を筆頭として砲艦、水雷艇多数を擁する当時の日本海軍からしてみれば化け物じみた艦隊であった。
しかし、北洋艦隊では水兵の練度を鑑みて、作戦海域を限定して温存する方針を採ったため、黄海海戦まで大きな海戦は発生しなかった。
伊東は連合艦隊司令長官として、そこを逆手に取り、清国本土に近い黄海まで艦隊を進出させての海上護衛戦を行う方針を打ち出し、海上輸送路の安全確保に努めていた。
海上護衛に勤しむ連合艦隊であったが、北洋艦隊が擁する強力な装甲艦2隻とは、大々的な海戦によって、いずれは決着をつけねばならない状況であった。
黄海海戦
1894年9月16日、定遠を旗艦とする北洋艦隊が大連湾にて陸兵4000人が分乗する輸送船5隻と合流して出撃、大狐山での陸兵上陸を支援した後、翌9月17日は午前から大狐山の沖合にて訓練をしていた。
これと敵を捜索するために黄海を哨戒中の松島を旗艦とする連合艦隊が1894年9月17日午前10時ごろ、互いに艦隊の煙を視認、同日正午ごろに接敵して海戦になった。
この件、北洋艦隊が指定された作戦海域の外へ出撃に至った裏の話をすると、連合艦隊が黄海に出没しているのを見た清国皇帝自身から「あんな弱小艦隊ごときにビビってんじゃねえ! お前らヤル気あるのか?」とつつかれたのが大きいとされている。
そして、単縦陣と北洋艦隊以上の優速による機動力で敵の翻弄を試みる連合艦隊と、衛角攻撃を主体とした横陣突撃によって連合艦隊の単縦陣を切り裂こうとする北洋艦隊の戦いとなった。
連合艦隊では定遠級に対抗する為に船体に比べ無理矢理搭載した松島型の1門の32㎝の大口径主砲は旋回で艦が傾き、発射の反動でも傾き、また不具合多発で3隻合計で12発しか発射できなかったうえに日本側の確認の命中弾も2発程度と振るわず、残るは小口径の砲による手数での勝負になった。
中でも日本海軍が副砲として採用していた速射砲は、清国の海軍が持っていない最新式のものであり、その射撃速度は清国の海軍が10発撃てば50発の返礼が来るようなシロモノだった。
これにより定遠級の重装甲は貫通できないものの、手数の多さに比例して増加した命中弾で砲への命中や火災で攻撃能力を奪う事となり、それは定遠級以外の清国艦艇には更に大きな打撃を与える事となった。
黄海海戦では両軍において、次のようなアクシデントが発生している。
- 連合艦隊側その1:伊東自身が乗っていた松島の左舷副砲砲郭に鎮遠の主砲弾が命中して大破、しかし伊東は事を収拾すると、艦長へ取舵16点回頭を指示して大破した反対側の右舷の副砲で応戦を始めた。だが旗艦機能は低下し、不管旗(自己の運動に倣う必要はないとの信号旗)を挙げ、後に旗艦を橋立に変更した。
- 連合艦隊側その2:戦況視察の為に軍令部長樺山資紀が乗る仮装巡洋艦西京丸とその護衛の砲艦赤城に対して伊東は戦闘海域からの退避を要求したものの、赤城の最高速度が10ノットと低速で中途半端な離脱となったために海戦に巻き込まれた。
- 連合艦隊側その3:本隊の一員として参加していた装甲コルベットの比叡が連合艦隊旗艦の機動についていけずに孤立、敵中をショートカットする羽目になった。
- 北洋艦隊側その1:旗艦の定遠において主砲射撃時の衝撃で艦橋が崩壊、丁汝昌提督が負傷したために艦隊の指揮ができなくなった。
- 北洋艦隊側その2:防護巡洋艦済遠艦長方伯謙は軍艦同士の戦いに乗り気でなかったとも言われ、艦もろともの敵前逃亡を図った。それに巡洋艦広甲も続いている。(広甲は後に座礁)
これらのアクシデントのうち、定遠の艦橋崩壊によって指揮不能に陥った際、指揮権の継承について定めておかなかったことが連合艦隊に有利に働き、また練度・全体的な士気の低さ、砲弾には火薬でなく石炭粉・泥・砂・豆が入っている物がある程に火薬不足などメンテナンスも満足な状態では無かった北洋艦隊は格下である筈の日本艦隊に装甲巡洋艦1隻、防護巡洋艦2隻を撃沈され、更に防護巡洋艦1隻。巡洋艦1隻を座礁で失い、退却していった。
もっとも日本側も撃沈された艦は無かったものの、松島、赤城、比叡、西京丸が大破し、松島は轟沈の可能性もあり、決して楽な海戦では無かった。
一度は旅順の軍港へ逃げ込んだ北洋艦隊であったが、旅順の陥落に伴って北洋艦隊の本拠である威海衛へ退避、連合艦隊司令長官の伊東と陸軍参謀総長が協議した結果、いまだ主力の装甲艦2隻を温存する北洋艦隊の息の根を止めるべく、陸海軍共同による威海衛の占領作戦が実施されることになった。
威海衛の戦い
1895年1月20日、軍艦に護衛された海軍陸戦隊と野戦電信隊が山東半島の先端に上陸、灯台を占領の上、電信線を切断した。
翌日からは陸軍の部隊が上陸を開始、同年2月2日までに威海衛における大陸側の防衛拠点の全部を占領され、連合艦隊には北洋艦隊が脱出できないように威海衛湾に対して包囲網を敷かれ、湾内の島にある泊地に陣取る北洋艦隊は泊地が大陸側を向いているということだけで全滅には至らない状態にあるという絶体絶命の危機に陥った。
このような状況下で北洋艦隊は大陸側を占領した陸軍に対して定遠級装甲艦の主砲による艦砲射撃をもって攻撃、さしもの陸軍も定遠級装甲艦の主砲による攻撃には対抗できなかった。
この頃、連合艦隊では北洋艦隊の泊地がある劉公島と日島に対して艦砲射撃を行っていた。
大口径の砲が有効であり、相手は動かない目標である上、着弾が多少外れても構わないため、これまで役立たずと思われていた松島型の主砲が役に立った瞬間である。
それでも、敵の泊地の背後から砲を撃ちこむため、戦果はたかが知れている。
陸軍からの要請もあって、ついに伊東は完全に連合艦隊にビビって出てこなくなった北洋艦隊を始末するべく夜間に水雷艇を湾内へ突入させる作戦を承認した。
ここに至る経過は、連合艦隊にビビって威海衛の泊地から出てこなくなったものの陸軍部隊への艦砲射撃で猛威をふるう北洋艦隊に大損害を与える方法を模索していたところ、最終的に水雷艇部隊による夜間の殴り込みしかないという結論に達し、水雷艇部隊の将兵を危険の極みにさらすことを承知で承認したもので、伊東は決して夜戦バカではない。
この襲撃作戦は同年2月5日未明に決行され、ついに日本軍が警戒していた定遠級装甲艦2隻のうちの1隻を座礁させ、後に処分させることに成功した。
さらに4日後の未明にも2回目の突入が決行され、計2回の攻撃で最終的に巡洋艦3隻を撃沈、装甲艦1隻を大破・座礁させた。
連合艦隊が必要とあれば水上艦艇で泊地への殴り込みを繰り返して敢行するような命知らずの集団であることを思い知らされた北洋艦隊は大混乱に陥いり、もはや戦闘の継続は不可能となった。
ここに及び、北洋艦隊の丁汝昌提督は、同年2月12日、連合艦隊司令長官に宛てて『北洋艦隊は貴官に降伏する。北洋艦隊に残された装備のすべてを引き渡す代わりに我が管轄下の将兵の助命を依頼する。』という内容の文書をしたため、上官の李鴻章へ向けて決別の電報を発した後に自決した。
翌日、北洋艦隊から丁提督名義の請降書が提出され、伊東は連合艦隊司令長官としてこれを受理、敵本土にある敵艦隊の根拠地に錨をおろした松島の艦上にて、威海衛の占領と残った北洋艦隊の艦の全部を鹵獲して敵艦隊の息の根を完全に止める形での撃滅を宣言した。
その後、伊東は丁提督からの文書を守り、丁提督の管轄下で戦った将兵を捕虜とすることなく戦闘区域外へ解放した。
日露戦争
日清戦争後に海軍軍令部長に就任。日露戦争の期間を通じて海軍軍令部長を務めた。
自分が樺山軍令部長にされたことによって、大事な部下の一人である砲艦赤城の艦長坂元八郎太海軍少佐が、艦上で壮絶な戦死をしたことを覚えており、督戦と称して出ていくようなことはしなかった。
日露戦争後
日露戦争の終戦直後に元帥海軍大将に列せられ、1907年には伯爵に叙せられた。
しかし、政治権力には一切の興味を示さず、軍人としての生涯を全うした。
余談
- 実戦に従事した連合艦隊司令長官としては、東郷平八郎、山本五十六といった著名な連合艦隊司令長官の陰に隠れがちな人物であるが、巡洋艦に乗り組んで交戦した唯一の連合艦隊司令長官である他、北洋艦隊の降伏申し入れの文書が連合艦隊司令長官に宛てて提出されたことで、図らずも敵艦隊を敵本土の根拠地へ追い込んで残った敵艦艇を全部鹵獲しての完全なる撃滅と敵本土にある泊地の占領を同時に達成した唯一の連合艦隊司令長官にもなった。やっていたことは地味であるが、その結果は歴代連合艦隊司令長官の誰にも負けないものだったりする。
- 伊東は北洋艦隊の提督である丁汝昌とは戦前に2回会っており、2回目はお互いに写真を交換する程に親しくなっていた。その交流で彼が日清戦争当時、腐敗にまみれた清国の軍隊において、まともな海軍軍人であることを理解していた伊東は、北洋艦隊の全滅に際し、丁提督個人に宛てて『清国海軍の再建がある以上、あなたは今死ぬべきではない。捕虜になっても当方としては国を挙げて最大の礼をもって尽くすし、天皇陛下に謁見できる機会も用意する。国に帰ることで危害があるようなら私が日本政府に働きかけて必要な期間日本に滞在できるようにする。』という内容の降伏を促す文書を送っている。丁提督が自決した後も北洋艦隊壊滅の責任を取って自決した丁提督の遺体は北洋艦隊の艦艇が日本側に全て鹵獲されたことからジャンク1隻に乗せて丁の故郷に送られる筈であったが、それを聞いた伊東は北洋艦隊司令官を務めた程の人物の遺体を送るに相応しくないと威海衛で鹵獲した艦船の中から「陛下からお咎めがあったなら一死をもってお詫びするのみ」と独断で輸送船1隻を外して交付した。後日、明治天皇に謁見した際、独断で輸送船を交付したことに触れたところ、「伊東よ、もうよい」の一言で不問に付されたという。明らかに海軍戦力が対等でなかったと感じていた伊東は一歩間違えれば自分が佐世保あたりで丁提督の立場になっていたことを痛感していたのであろう。
- 夜戦バカの記事では、日本海軍における夜戦バカの始まりは、伊東が威海衛において水雷艇を使用した夜間の襲撃を決行したことにあるとし、しかも伊東が夜戦大好きのような表現になっている。現実のところ、伊東は昼間の正統的な戦い方を好む海軍士官で、艦隊に夜間の強襲を決行させたのはこのときしかない。しかも、この作戦は近代海戦史上稀な水上艦艇による泊地の襲撃であって、後の夜戦とは異なる性質の作戦である。なお、この作戦を水雷艇部隊の司令を集めて発表した際、もっと安全な作戦を立案できなかったことを理由として伊東は司令達に詫びの意を含めた訓示を行っている。