「流血のもっとも少ない作戦こそが最良の作戦である。」
生涯
1868年4月12日(江戸時代中でも幕末)、愛媛県松山の下級武士の家に生まれる。兄は「日本騎兵の父」と呼ばれている秋山好古である。幼名は淳五郎。幼少期は地元の塾に行っていた。その頃から和歌の才能があったみたいである。
親友の正岡子規が上京したためそれに触発されて真之も上京。1883年(明治16年)に将来の太政大臣になるため共立学校(現在の開成高校)に入学し英語を学んだ後大学予備門(現在の東京大学教養学部)に入学。同級生には子規の他に夏目漱石や尾崎紅葉がいる。東京帝国大学(現在の東京大学)入学を目指したが、好古に学費を頼っていたために申し訳なさから諦める。代わりに学費が必要ない海軍兵学校への入学を決める。4年後には首席で卒業する。
卒業後の1890年10月~翌年5月にははエルトゥールル号遭難事件の生存者送還にも従事する。1894~1895年の日清戦争では偵察などの後方支援に徹した。日清戦争終結の翌年には横須賀で水雷術を学ぶ。
1898年、真之はアメリカに留学する。この期間には軍事思想家のアレフレッド・セイヤー・マハンに師事している。アメリカでは海軍文庫や図書館に通いつめ戦術の理論研究に努める。米西戦争を観戦する機会も与えられ、キューバの港の閉塞作戦も見ることができた。この時の経験が後の戦いにも影響しているので、何かしら日本の歴史にこのことは影響したのかもしれない。そして1900年に帰国する。
帰国後は海軍大学校の教官となるが、1903年に人事異動で主力の第一艦隊の作戦参謀となる。この時の提督が「寡黙の提督」と言われた東郷平八郎である。東郷からは信頼を寄せられていたみたいで「智謀湧くが如し」と評された。1904年に日露戦争が勃発すると旅順港閉塞作戦や日本海海戦の作戦立案などで大きな戦果を上げている。
戦後は海軍の賄賂事件シーメンス事件収束への尽力、軍艦建造の予算確保、中国の視察、ヨーロッパに行き第一次世界大戦の観戦などをするが目立った活躍はなかった(だから世間では日本海海戦が人生のピークとよく言われる)。
1917年(大正7年)に虫垂炎を患い箱根で療養。一時は回復するも翌年再発。腹膜炎を併発し同年に49歳で死去。
日本海海戦
日本海海戦で真之は大いなる活躍をした。
真之が立案した日本海海戦の戦法こそが7段構えの戦法である。これは戦いの流れを事前に7つに分けたものである。内訳は1段/駆逐艦部隊による海戦前夜の奇襲攻撃、2段/主力艦隊による敵主力への攻撃、3・4段/昼間に決戦のあった夜の駆逐艦による再度の奇襲攻撃、5・6段/敵の追撃、7段/ウラジオストクの機雷集中地帯に追い込み殲滅、というものであった。実際には第1段は天候不順で実行できず、第2・3段で敵を殲滅できたため全ての実行はされなかった。
また真之の考案したT字戦法はバルチック艦隊を殲滅した(発動には諸説ある)。また有名な「本日晴朗なれども波高し」の電報や「皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ、各員一層奮励努力セヨ」の意味があるZ旗、「勝って兜の緒を締めよ」で知られる連合艦隊解散の辞を考えたのも真之である。
エピソード
- 第一次世界大戦の結果を言い当てた。
- 連合艦隊解散の辞やZ旗の電報、「本日晴朗なれども波高し」の電報など名文家で知られ彼の文章は「秋山文学」と呼ばれた。
- 幼少期はガキ大将だった。
- 朝、トイレに行くのを面倒がって窓から放尿した際に「雪の日に北の窓あけシシすればあまりの寒さにちんこちぢまる」と詠んだ。
- 海軍兵学校時代に同校で野球チームを作り海軍野球の創始者となった。
- 海軍兵学校入学時、成績は下から数えた方が早かった。しかし、試験管の癖などを見抜き、勉強はたいしてしなかったのに山勘だけで好成績を収め卒業時には首席になっていた。
- 海軍に入って間もないころ、パンくずでビスマルクや豊臣秀吉の頭像を作っていた。
- 煎り豆が好物だった。
- よくソラマメとえんどう豆のものを食べていた。
- 軍服の袖で鼻水をふいたり、作戦を練り始めると入浴せずに数日過ごすなど、身なりを全く気にしない性格であったと伝えられる。また人前で放屁や放尿をすることもあった。
- 秋山の参謀を務めていた飯田久恒少佐はこう言った。
- 「この人は頭がいいから名参謀だが、普通だったら変人だ」
- アメリカからの帰国中に賭博詐欺にあったが詐欺師から取り返した。