沿革
1703年、スウェーデンとの間で大北方戦争が行われている最中、ピョートル大帝によってクロンシュタットで編成された。ロシア帝国時代は主にスウェーデンやプロイセンとの戦争において活躍しており、編成当時の大北方戦争をはじめ、七年戦争や露土戦争、クリミア戦争などに出撃している。特にクリミア戦争においては機雷による海上封鎖が世界で初めて行われ、スウェーデンに参戦を躊躇させるなど心理戦において大きな戦果を挙げたとされている。
日露戦争の際には太平洋艦隊の増援のために第二・第三太平洋艦隊を編成して、旅順の太平洋艦隊への増援として極東方面に派遣されたが、それらの艦隊が抽出してきた先の艦隊名をとって日本ではバルチック艦隊と呼ばれるようになったと思われる。
リバウ軍港を出港した艦隊はスエズ運河が日本と同盟関係にあったイギリスの管理下にあった事から主要艦艇は喜望峰経由の遠回りを強いられ、艦艇は充分な整備がなされず、北国の将兵は南国の暑さに慣れておらず、更に寄港ごとの石炭積載作業などもあって半年の航海中に多数の乗組員が死亡、脱走して厭戦気分も高まるなど激しく疲弊していた。
また、当時はロシア海軍の新鋭艦と優秀な将兵は太平洋艦隊と黒海艦隊に配備される傾向にあり、艦隊は太平洋艦隊への派遣が間に合わなかった当時最新鋭のボロジノ級戦艦4隻を擁してはいたが、その他は戦艦オスラービアなどを除けば旧式艦艇が殆どであり、第三太平洋艦隊に至っては第二太平洋艦隊司令官ジノヴィ・ロジェストウェンスキー中将が長期航海に耐えられないとしてリバウに置いてきた旧式艦で編成されて追加として送られてきたものであり、ロジェストウェンスキー提督はそれらの艦艇は艦隊の戦闘力を上げるどころか低下させると反対し、乗組員からも「浮かぶアイロン」等と酷評されていた代物であった。
こうして見かけは立派だが、実力は甚だ疑問視される艦隊を率いるロジェストウェンスキー提督は航海中に家族への手紙の中で艦隊の敗北を予想している程であり、事実、日本海海戦において万全の態勢で待ち構えた質量ともに優秀な日本海軍を前に史上空前の大敗を喫した艦隊は、その編成に多くの艦艇を割いた当時のバルチック艦隊共々事実上壊滅状態となった。この敗戦が後に革命勢力の活発化に繋がりロシア帝国の崩壊の一因となった。
その後建艦10ヵ年計画が立てられガングート級戦艦を就役させるなどして再建が進められていたが、第一次世界大戦直前の竣工という事もあり大戦期にはほとんど行動する事が出来なかった。
1917年、バルチック艦隊に練習艦として所属していた防護巡洋艦アヴローラは十月革命の勃発に呼応してペトログラード(後のレニングラード、現・サンクトペテルブルク)の冬宮に対し砲撃を敢行しボリシェビキによるクーデターを支援した。その後もバルチック艦隊の水平は革命を支持していったが、ボリシェビキが独裁化していくと次第にこれに対立するようになった。
1921年、バルチック艦隊の水兵はボリシェビキに対する15項目の決議を採択、クロンシュタットにて蜂起した(クロンシュタットの反乱)。しかしこの反乱は赤軍による2度の総攻撃で鎮圧され、多くの兵士がフィンランドへの亡命を余儀なくされた。
赤軍に組み込まれた後、第二次世界大戦においては冬戦争や独ソ戦に参加し、赤軍の支援を行った。戦後はドイツから獲得したカリーニングラードに拠点を移した。
冷戦中は西欧諸国に対する最前線として重要度を増したものの、その後ソ連海軍の主力が核ミサイルを装備した原子力潜水艦になっていくと、これらが重点的に配備された北方艦隊や太平洋艦隊に比べ、相対的な軍事重要性はむしろ低下していく一方となった。これはソ連崩壊によってロシア連邦に移行した現在においても基本的には同様である。
現在はロシアがウクライナ侵攻を行った事で、それに危機感を抱いたフィンランドとスウェーデンがNATO加盟を決断、結果バルト海は完全にNATOに包囲される形となってしまい、艦隊の重要性は更に低下している。
関連タグ
お笑いコンビ「バルチック艦隊」
2005年から2007年まで活動した「三島達矢」と「小畑陽治」のコンビ。
解散後、三島は元「うずまき」の南條庄祐と「すゑひろがりず」として活動中。