概要
1904年(明治37)-1905年(明治38)。大日本帝国とロシア帝国が朝鮮半島と満州を主戦場に衝突した戦争。結果は大日本帝国が勝利した。
陸と海の双方で激戦が繰り広げられ、特に陸戦では奉天会戦、海では日本海海戦が有名。
近代史において日本やロシアの国内や外交的立場だけでなく、以降の世界状勢や軍事的要素にまで多大な影響を及ぼした。
戦争目的
大日本帝国 | 日清戦争後の三国干渉と義和団の乱後の満洲を勢力圏としていたロシアによる朝鮮半島への南下(朝鮮支配)を防ぎ、日本の安全保障の獲得による国土防衛。 |
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ロシア帝国 | 遼東半島(中国遼寧省の南部に位置する中国第二の大きさの半島)の旅順、大連租借権等の確保と満洲・朝鮮における自国権益の維持・拡大。 |
背景
満州侵攻の機会を狙っていたロシアは、北清事変に乗じて満洲を事実上占領し、しかも清国と露清密約を結んで南下する気配を示した。このようなロシアの勢力拡張を脅威と感じた日本は、義和団の乱を機に明治35年(1902年)1月にイギリスと日英同盟協約を結び、これを後ろ盾として、ロシアに満洲からの撤兵を強く迫った。
そのためロシアは、いったんは清国と満洲還付協定(明治35年(1902年)4月)を結んだが、これを実行せず、かえって韓国(明治30年(1897年)に朝鮮は国号を韓国と改めた)の領土内に軍事基地を建設し始めた。そこで、もし韓国がロシアの勢力圏内に入れば重大な脅威になると考えた日本政府は、満州におけるロシアの自由行動を認めるかわりに、韓国からロシアの勢力を排除するという方針を固めて、明治36年(1903年)8月から約6ヶ月にわたってロシアと交渉したのである。
しかし、この交渉は実を結ばず、日本は明治37年(1904年)2月、元老と政府・軍部首脳が御前会議を開いて対露開戦を決定した。
日本海軍の旅順攻撃と陸軍部隊の仁川上陸によって、日露戦争が始まったのである。
勃発
世界最強の陸軍国ロシアとの戦争は、文字どおり日本の国家と国民の運命をかけた戦いであった。
強国ロシアとの戦争がきわめて苦しい展開になるであろうことを予想していた政府は、まず日本銀行総裁の高橋是清をイギリスに派遣して、巨額の戦費にあてるための外国債を募集し(これについては後述)、また金子堅太郎をアメリカに派遣して、アメリカ大統領セオドア・ルーズヴェルトに和平の仲介を打診している。
苦戦の果ての勝利
ロシアの東洋艦隊は、北欧から地中海・インド洋を回って来るバルチック艦隊の到着をまって日本海軍との決戦にのぞもうと図り、旅順港から出ようとしなかった。それに対して日本海軍は独力での旅順港の封鎖を図ったが失敗し福井丸を指揮していた広瀬武夫大尉らを失ってしまう。バルチック艦隊の到着前に東洋艦隊を撃破するため、コンクリートで固め機関銃で武装した東洋最大の要塞・旅順を早く攻略するよう、陸軍に要請した。
その大任にあたったのが乃木希典大将の率いる第三軍で、のべ155日、5万9千人の死傷者を出して、ようやく明治38年(1905年)の元日に陥落させた。日露戦争を通しても甚大な被害であるが、これは陸軍参謀本部が旅順に立て篭もるロシア軍を約3万と予測していたため、倍の6万の兵力を持つ第三軍の突撃戦術で制圧できるだろうと思っていたためである。しかし実際の旅順には陸軍・海軍併せて約6万6千。その他の兵員を入れると7万3千にもなる大軍を配備していたため、突撃で押し寄せても物量で押しつぶされるという状態が多々起き、戦闘の泥沼化がおきてしまったためである。乃木大将と敵将ステッセルの会見場となったのが「水師営」で、この時乃木大将は、敗将ステッセルに礼を尽くして帯剣を許し、両将が互いに勇猛さをたたえあったという。
日本軍とロシア軍が激突したのは、明治38年(1905年)3月の奉天会戦が最も大きい。
旅順を陥落させた乃木第三軍が北上して、戦線に加わることを恐れたクロパトキン将軍は、1月下旬、全軍に攻撃命令を発した。それに対して満洲軍総司令官の大山巌は、敵の機先を制するために奉天総攻撃を敢行しようという児玉源太郎参謀総長の進言を容れ、全軍に攻撃命令を伝えた。
日本軍の配置は、黒木為楨大将の第一軍がロシア軍左翼、野津道貫大将の第四軍が正面、奥保鞏大将の第二軍がロシア軍右翼に相対するというもので、乃木大将の第三軍は、敵の右側面を迂回してクロパトキン軍にせまるという任務を与えられた。
ロシア軍36万に対して約25万の日本軍は、弾丸の不足にも悩み、各地で苦戦に陥った。そこで総司令部は、旅順で傷つき補充も十分でない第三軍に対して、ロシア軍右翼への突入を命じた。この作戦で第三軍は多大な犠牲を出したが、クロパトキンが乃木第三軍を恐れて退却を開始したので、日本軍はようやく戦闘に勝利することができた。しかし、敵を追撃して完全な勝利を収めるだけの余力は残っていなかった。これ以降日本軍の大陸攻勢は止み、ロシア軍も撤退後の軍の建て直しが急務とされ、反攻作戦は行われなかった。
なお、クロパトキンの撤退は作戦の一環として行われたが、ロシア軍兵士達の士気が低かったこともあり、抗命、略奪、逃亡等が多発し「戦略的撤退」はいつしか「敗走」に変わっていた。それでもクロパトキンは日本軍の兵站の貧弱さを狙い、防勢を維持しようとした。しかし諸外国や多民族からなるロシア国民に対して「見える勝利」を欲していたニコライ2世はクロパトキンの消極的態度を嫌い、彼を罷免した。
この事は皮肉なことにも世界に対して奉天会戦を日本の勝利として印象付けることになった。世界の予想が「ロシア勝利」から「日本勝利」へと徐々に変化したことにより、日本国債の信頼も上昇した。つまるところ、戦争に勝つために必要な資金を得るためには目に見える勝利が無ければならないという意味で奉天会戦は結果的に大勝利であったと言っても過言ではないだろう。
決戦
明治38年(1905年)5月27日早朝、連合艦隊司令長官東郷平八郎は、大本営に対して「敵艦見ユトノ警報ニ接シ、連合艦隊ハ直ニ出動シ、之ヲ撃滅セントス。本日、天気晴朗ナレドモ浪高シ」という有名な打電を発し、全艦に出撃を命じた。午後1時55分、対馬沖の海上にバルチック艦隊を発見すると、戦艦三笠のマストにZ旗が翻った。「皇国の興廃、此ノ一戦ニアリ、各員一層奮励努力セヨ」の信号である。
連合艦隊は、敵の砲弾が着弾するぎりぎりのところで、意外な敵前大回頭を行い、敵艦隊の行方を遮る陣形をとった。いわゆる「丁字戦法」である。日本の艦隊は全ての面でロシア艦隊を圧倒し、特に砲弾の命中率は10対1だったという。そのために、バルチック艦隊38隻は、かろうじてウラジオストックへ逃げ込んだ数隻を除いて、この対馬沖で全滅した。
終戦
この時点で日本は開戦前の単年度国家予算の7倍以上という莫大な戦費を費やしており、ロシアは支配下の民族独立運動や、国内での革命運動による政情不安が政府を揺るがし、両国ともこれ以上の戦争継続は困難となった。この時点でアメリカ合衆国の仲介が入り、両国はポーツマス講和条約を結び、朝鮮・満州の日本の権益確保が確定した。
明治38年9月4日、これにより日本とロシアの間の戦争は終結した。
なお、条約内容(特に賠償金の有無)が自身たちの予想したものとは大きくかけ離れていたため民衆は憤慨、日比谷焼打事件を起こした。
影響と意義
歴史面
日露戦争における日本の勝利は、政治・軍事・経済を超えて歴史の一大転換点として記録されている。
特に大きな特徴が、国家の近代化が如何に国力に直結するかという実例になった点。
この近代化の実例になったという点は、あらゆる国々に非常に大きな影響を与えており、日露戦戦争以降、アジア諸国は急激に近代化という目標を目指して国家運営の舵を取ることになる。
当時の超大国の一角であり、世界規模で巨大な影響力を振るっていたロシア帝国の敗北にの影響は後に、アジア・アフリカの歴史に非常に大きな影響を与えることになる。
ヨーロッパでは主に、北欧を中心にロシア帝国の影響下にあった国々がその支配下からの脱却を目指す様になる。後のソ連誕生のきっかけになる。など、大きな変化を与える事になった。
「立憲は専制に勝る」、「有色人種国家が白色人種国家に勝利した」という点は特にアジアの民族運動に大きな影響を与え、
- 中国→孫文による、個々の革命団体を統合した中国同盟会の結成
- ベトナム→独立運動高揚、日本に留学生を派遣する「東遊運動」の発生
- イラン→立憲革命発生
- トルコ→青年トルコ革命の発生、専制君主の退位、憲法の復活
- インド→イギリスからの自立を訴えるインド国民会議カルカッタ大会の開催、以降のインド独立運動の基本方針となる「カルカッタ大会4綱領」の採択
などなど…世界中の近現代史を学ぶにあたって、日露戦争の影響を抜きに歴史を学ぶことができないと言っても過言ではなく、正に世界を変えた一戦と言っても良い。
政治面
日露戦争における日本の勝利は、有色人種が近代戦において白人に打ち勝つことが出来ることを示し、ロシア帝国の圧迫を蒙っていたユーラシアの諸民族を喜ばせ、欧米列強の植民地化の脅威に晒されていたアジア各国、更にはアフリカ各国は希望を感じるなど、世界に衝撃を与えた。日本は欧米列強にも一目置かれる近代的国家に脱皮し、明治44年(1911年)には明治政府発足以来の悲願であった不平等条約の改正に成功。日本は欧米列強と同等の国家として認められることとなった。また、日本の軍人の名前を子供に付ける例も確認されている。
だが日露戦争そのものでは、日本は局所的勝利を収めたものの大局的には限界の末に勝ち取った辛勝であった。朝鮮半島の防衛・満州におけるロシアの排除という当初の目的は達成されたが、賠償金などの直接的成果を得る事は出来なかった。そのため東京ではポーツマス条約に不満を持った国民による暴動事件が起こったりしている。日露戦争の勝利は日本が大陸進出に傾斜する契機となり、後の韓国併合につながる。
また、戦争として激突し、ポーツマス講和条約によって日露の勢力圏が確定したことで、日露関係は急速に改善していった。それに連鎖して、英露関係と日仏関係も改善し、英仏の対立も緩和された。これにより、ドイツの強大化も手伝って、イギリスの警戒対象はフランスからドイツに変わった。アジアでの南下が停止したロシアはバルカン半島に注力することになり、対清では協調していたロシアとドイツの関係が急速に悪化していった。この国際関係は第一次世界大戦における連合国と同盟国の色分けへとつながっていく。
日露戦争で日本は20億円の戦費を費やした。明治35年(1902年)の日本の国家予算はたったの2億6000万円であり、当時の日本の経済規模では到底補うことの出来ない大戦役だったといえる。不足分は国債を発行してイギリス・アメリカ(後にはドイツ・フランスも)が購入した。国内では増税と国債の購入強制、公務員給与の天引きを行って戦費を捻出した。日露戦争遂行のためのポンド建て日本国債は、借換債を発行しながら昭和61年(1986年)にようやく完済している。
また、イギリス・アメリカなどが日本を、ドイツやフランスがロシアを支援した。これまでにない世界規模の国際関係と近代的総力戦の面から、「第"0"次世界大戦」であったする説もある。
軍事面
日露戦争は、近代国家同士が正面から激突した初の戦争(内戦である南北戦争を除くと、初の総力戦)であり、「戦争の世紀」と呼ばれる20世紀の始まりを告げる戦争でもあった。
陸軍は両陣営とも十分な数の機関銃を装備し、わずか1年余りの間に両軍合わせて10万人以上の戦死者(病死は除く)を出した。
これに対抗する手段として考えられたのが第一世界大戦にみられる塹壕線の構築だった。戦場では長大な塹壕がいくつも生まれ、それに対応するために手榴弾が復活した。こう言った戦況の中、騎兵はすでにその役目を終えたが、機動力を買われ、飛行機や戦車の代わりとして運用され続けた。
海軍は、海戦における新しい射撃法である「斉射」を確立した。日本海海戦は、それまでの戦艦の基本形である「多種多様の砲配置」を一変させ、新型戦艦ドレッドノートを生み出し、以降戦艦は巨大化を迎えることになる。この様な戦艦の誕生は、すでに秒読み段階だったとはいえ、この戦いが大艦巨砲主義と列強同士における建艦競争を促すきっかけになったのは言うまでもない。
情報面
局地的勝利を重ねても国力の差から常に苦戦を強いれられていたが、国民の士気低下や国債の販売への影響から、戦果を誇大報告や伏せられる情報も多かった。
有名なものが戦艦「八島」「初瀬」の撃沈事件であり、この事実は戦争終結まで秘匿された。
こういった情報の統制や操作、所謂「プロパガンダ」は近代に限った話ではないが、電信網の拡大や新聞・ラジオといったメディア媒体の発達はこういった情報戦をより安易に、かつ高度な次元へと押し上げ、2度の世界大戦をはじめとする近代戦争を語るうえで決して欠かすことのできない要素となった。
日本においては太平洋戦争における大本営発表が有名だが、同戦争におけるアメリカの戦艦「ヒラヌマ」撃沈報道など連合国側でも多数の事例がある。
その他
日本国内では、文字通り国を挙げて戦争に参加していた。「戦争による経済的破滅」と言う恐怖が最初からあったために、政府は開戦前から講和の下準備を行い、増税はもとより強制募金や国債割当まで行って戦費調達を実行した。政府は、戦争に勝つためだと苦しい生活や身内の戦死に耐え続けることを国民に強いた。
国民の側も「この戦争で負ければ日本は滅びる」という危機感が広く共有され、また富裕層から庶民に至るまであらゆる人々が生活・経済的負担(家庭における父・息子の不在、戦時経済)を負ったため、前時代的階級意識を超えた「日本国民」という一体感、公民としての意識が育成された。
これらの特徴は、全て後の第一次世界大戦に見られる総力戦そのものであった。総力戦においては、国家が自らが保有する(従来非軍事とされた分野も含めた)全ての資源を如何に有効に動員できるかによって戦争遂行の可否が決まる。しかし、欧米諸国はそれを「極東の変事」であり例外的事例であるとして特段考慮しなかった。しかしその9年後、列強は総力戦なるものを国民の血と財産を犠牲に思い知ることとなる。
日露戦争の勝利は新興国家日本の地位を著しく上昇させ、開国以来欧米に追従を強いられていた日本国民に誇りを与えたが、同時に後の日本に禍根を残すことになった。満州においてロシアを破った陸軍はその後もロシア(及びソ連)を主たる敵国と考え戦備の拡大を志向し、逆に敵を失った海軍は大戦勝の誇りと艦隊の規模維持の為にアメリカを仮想敵国として戦力を拡充、『日本海海戦の再現』に執着し戦略眼・大局的思考を失っていった。また、蔣介石率いる国民党と満州をめぐって対立した際、満州からの撤退について「日清・日露の戦役で命を落とした英霊に申し訳が立たない」という非合理的理由の反対も起きた。(但し満州地方は日露戦争の犠牲だけではなく多額の資本を投入した日本の生命線であり、その権益が脅かされるのは感情論を抜きにしても到底受け入れられることではなかった。)
意外な影響
大日本帝国 vs モンテネグロ公国
当時ロシアの同盟国(と言うか保護国)だったモンテネグロ公国は日本に宣戦布告していたのだが、なんと日本政府はモンテネグロをロシアの隷属国家とみなし、まともな国家として扱わずに無視してしまったのだ。交戦はなかったものの、モンテネグロは実際に戦場に軍を派遣していた。
さらに旧ユーゴスラビアは旧東側だったため、サンフランシスコ講和条約にも調印していない。つまり日本との間で戦争を止める同意をしていない事となる。
時は流れて平成18年(2006)年、ユーゴスラビアが解体されモンテネグロが独立することになった。
日本の外務省や国会議員は、モンテネグロの承認に向けて資料の精査を行っていた。
その時、
「おい、モンテネグロに宣戦布告されてるぞ!」
この状況でモンテネグロが再独立すれば、国際法上は日本との戦争が再開されることになる。
それはマズいので、独立承認に向けたモンテネグロへの特使が終戦通告書も持参したという。
もしも、この時、日本がモンテネグロの宣戦布告を認めた場合、日英同盟に基づくイギリスの参戦を招き、それに対してフランスが露仏同盟に基いてロシア側で参戦することまでが確定していた。場合によってはドイツがロシアに与して日英に宣戦布告、それを見たアメリカ合衆国が日英側に味方して露仏独に対して宣戦布告といった状況になり、日露戦争が第一次世界大戦になっていたかもしれず、ここに関して日本政府はうまく立ち回ったと言える。
この件における唯一の幸運は、日本軍とモンテネグロ軍による交戦と、モンテネグロ兵の捕虜が発生しなかったことである。そのようなことになれば、現実に発生した敵対行為として日本政府も無視できなくなっていたであろう。
こうして見れば、実に101年にわたって続いた日露戦争はようやく完全に終結したという解釈も成り立つ。
ただし、これには異説もあり、実際日本国外務省からは、特使派遣報告をはじめとして日露戦争や休戦に関連する情報は出されていない事と、1914年にモンテネグロ公国自体が事実上消滅していたのである。
未成年者喫煙禁止法
その他の意外な影響として、日露戦争直前の明治33年(1900年)、日本で「未成年者喫煙禁止法」が制定された事実がある。
当時、たばこ税は貴重な国家収入であり、なおかつ成人年齢に対する考え方が改まっていなかったことから、子供たちも自由にタバコを吸っていた(現在でも途上国で行われている)。
しかし諸外国で徴兵検査不合格者の大半が喫煙者だったため、戦力確保と国威発揚のためにこの法律が制定された。無論、この法律は現在も現役である。
フィンランド軍歌・Banzai
当時、ロシアの圧政を受けていたフィンランドでは、日露戦争における日本の勝利を記念する軍歌・Banzaiが作曲された。