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概説編集

児玉源太郎は大日本帝国陸軍の軍人。陸軍大将子爵


幕末嘉永5年(1852年)に周防国都濃郡徳山村(現:山口県周南市)に、長州藩の支藩である徳山藩中級武士児玉忠硯の長男として生まれた。

しかし、父とは5歳で死別し、姉・久子の婿である家督を継いだ児玉次郎彦によって育てられた。

だが、義兄・次郎彦も源太郎が13歳のときに佐幕派によって惨殺され、家禄を失った彼の一家は困窮していた。


しかしその後、明治元年(1868年)に下士官として箱館戦争に初陣として参加した後に日本陸軍に入隊し、佐賀の乱神風連の乱といった争乱を鎮圧するなど頭角を現し、西南戦争では熊本城籠城戦にて鎮台司令長官の谷干城少将を良く補佐し、薩摩軍の激しい攻撃から熊本城を護り抜き、この経験が後に従軍した日露戦争にも活かされることとなった。


陸軍史上唯一の、任務のために降格人事を受け入れて任地に赴いた人物である。

第四代台湾総督としても後藤新平らを起用してアヘンの漸禁、鉄道開設、築港など主として平野部の統治普及に多大な治績を残した。山地の統治は次代の佐久間総督がこれを確立した。

台湾総督府前には彼の騎乗姿の銅像が立てられていたが、第二次大戦後これを気に入った蒋介石が首から上だけ自分の顔と取り換えるという暴挙に出た。


日露戦争後に早々と没してしまったのがあまりにも惜しまれる。

乃木希典にも言えるが、彼らが長命であったならば昭和期の軍部の暴走を抑止し、日本の針路を安定させるカウンターウェイト的な役目を果たしたかもしれない。


人物編集

  • 情に脆く友誼に厚い反面、短気で激情型でもあり、人間関係において軋轢を招くこともあった。しかし内省的に己を見つめ、諧謔(かいぎゃく)の精神を持ち、地位や権力に固執することはなかったので、人々から慕われた。
  • 晩年、浅草の凌雲閣で開催された日露戦争展で、小柄な児玉をナポレオンに準えて称える二人の陸軍将校の傍にそっと歩み寄り「児玉はそれほどたいした男ではありませんよ」と囁きかけながら立ち去り、「何を言うか」と振り向いた彼らが児玉本人だと分かって驚く様を見て楽しむというお茶目な面もあった。

関連タグ編集

後藤新平 台湾 台湾総督府 日露戦争 南満州鉄道 二百三高地


  • 乃木希典⋯日露戦争での彼の部下で、第三軍司令官。決して無能な人物ではないが、人事ミスとされることが多く、彼ではなく児玉が旅順要塞の攻略指揮も担当すべきであったとよくいわれる。

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