経歴
戦前
今村均、最終階級陸軍大将、1886年6月28日誕生。
宮城県仙台にて裁判官であった父虎尾の息子として誕生。少年時代より勉学に励んでおり、新発田中学校(現在の新潟県立新発田高等学校)を首席で卒業している。東京にて受験勉強をしていた19歳の春、父虎尾が亡くなったことから経済的に進学が難しくなり、陸軍将校の娘でもあった母きよみの薦めもあり陸軍士官学校受験を決意し合格した。
なお、進路について悩んでいたときに訪れた天覧閲兵式にて、明治天皇を一目見ようとする大勢の群衆を見て感激する想いをもったことが決断の決め手になったとされている。
陸士では常に優秀な成績を修めていたものの少年期より夜尿症を患っていたことから睡眠不足に悩まされており、講義中に居眠りをすることが頻発して教官に怒鳴られ続けていた。
しかし、「居眠りをするような不真面目な者なら、これだけ優秀な成績を出すのはおかしい。おそらく何かの持病で、本人も寝たくて居眠りしているわけではないようだ」と教官たちが思い至ったことから、居眠りで叱られることはほとんどなくなったという。
この頃の今村は文学青年としての一面も持っており、聖書や『歎異抄』を愛読していた。出世してからは、部下たちにも読むようにたびたび薦めていたという。
陸軍士官学校卒業後は見習い士官、陸軍少尉を経て陸軍中尉に昇任後に陸軍大学校に進学する。そこでも居眠りを繰り返していたものの、優秀な成績が評価されて首席で卒業している。余談なが、同期生の中に陸士時代からの親友である本間雅晴(3番の成績)や、東条英機(11番の成績)が居る。
卒業後は順当に昇進を続けており、イギリスやインドにて駐在武官を務め、陸軍省や参謀本部の人員などを経験している。陸軍教育総監部本部長に、戦陣訓の編纂メンバーの1人として参加しているが、後に「良い話を取り入れようとし過ぎて失敗してしまった」と振り返っている。また「生きて虜囚の辱を受けず」の文言が入れることに反対していたものの、自分のチェック後に差し込まれたことを阻止できなかったため、終生その後悔の念を抱くこととなる。
戦中
日中戦争は泥沼の状況となっていたが、参謀本部作戦部長であった富永恭次中将は、中国国民党をアメリカやイギリスが支援するために使用されていた補給線「援蒋ルート」の遮断を目的とした南寧作戦を発案、「援蒋ルート」を遮断して一気に日中戦争の決着をつけようと計画し、その重要な作戦の主力として今村が師団長であった第5師団に白羽の矢を立てた。富永の強引な作戦指導に今村は見事に応えて、激戦のうえ南寧を占領し中国軍に多大な損害を与えた。しかし中国軍は戦力を整えると、14個師団10万人以上の戦力で反撃を開始、今村は数倍の中国軍相手に奮戦敢闘し大損害を被りながらも南寧を死守した。その後、富永の命で第21軍が今村を救援し中国軍を撃退したが、圧倒的不利な状況で南寧を死守し中国軍に大損害を与えた今村の武名が全軍に轟こととなった。
太平洋戦争開戦時には、当時オランダの植民地であり最重要の戦略資源である油田のあるインドネシア攻略のために第16軍司令官に任じられた。この人事には大英帝国の極東の最重要拠点シンガポールの攻略のため第25軍司令官に任じられた山下奉文中将などと同様に、大日本帝国陸軍で名将と誉れの高い軍人を重要な作戦区域の軍司令に任じるという東條の強い意志の表れであった。
今村は東條の期待に応えて、蘭印作戦において最重要戦略的目標の油田地帯をほぼ無傷で奪取している。また開戦前の予想よりも30日近くほど早くに守備にあたっていた兵力では圧倒的に勝っていた連合国軍を降伏に追い込んでいる。
なお、このときに重巡洋艦最上が放った魚雷が座乗していた揚陸艦「神州丸」に命中して沈没、3時間に渡って重油まみれの海上で漂流することになった。後日、真相に気づいた海軍側が司令部総出で謝罪に訪れたが、今村は海軍側に対して「敵潜水艦か何かからの攻撃で沈没した」という形に収めるように提案している。
作戦終了後は現地の軍政を指揮することになり、インドネシア独立運動を行ったために政治犯として収容されていた者たちを解放し、オランダ軍から接収した軍資金を使って各地に学校などの公共施設を建設することで現地民の慰撫に努めた。また敵国民であるオランダ人に対しても、民間人については行動の自由を認め、軍人についても(当時の日本軍としては)高待遇の処置を行うなど、他の占領地では考えられないほどの寛容な軍政を行っていた。後に現地調査に訪れた政府高官は、「今村将軍の施政下にあるジャワ(インドネシア)が、他の占領地に比べてずば抜け良い」という趣旨の報告を行っている。
しかし、今村の方針は他の占領地にて苛烈な施政を敷く軍司令官から強く批判されており、親友である杉山元総参謀長が直々に訪れて「批判が多いから注意するように」と警告している。その後、軍務局長の武藤章中将と人事局長の富永恭次中将が、東條から今村更迭の検討を命じられ、ジャワを訪れて今村と面談、武藤は「シンガポール同様、強圧政策の必要」と今村に迫ったが、今村は「皇軍の本義に鑑み、仁恕の心能く無辜の住民を愛護すべし」という自らも編纂に参加した「戦陣訓」の一文を遵守しているだけと反論し議論が平行線となるなかで、今村は人事局長の富永に「八紘一宇というのが、同一家族同胞主義であるのに、何か侵略主義のように思われている」「(東條)大臣に上申の上、私の免職を計らっていただきます。」「結論は一つです。私のジャワ軍政方針は決して変えません」と自分の更迭まで迫ったが、富永は今村の方針に賛同し「ジャワ軍政には、改変を加うる要なし。現在の方針にて進むを可とす」と打電して今村を留任させている。今村と対立した武藤はのちに近衛師団長としてジャワに着任したが、今村の寛容な軍政の成果を目の当たりにし、今村にかつての非礼を詫びている。
1942年11月にラバウルの陸軍司令官として転任することになった。これは事実上の左遷であり、その背景には今村に対する批判と反発が軍中枢で強まったからとされている。ラバウル着任後、佐官時代から陸軍海軍の確執を越えて親交を結んでいた山本五十六大将と再会し、旧交を温めている。そのため、山本五十六が戦死した際は号泣し、悲しんでいたという。
ラバウルにおける今村の方針は、西進してくるアメリカ軍によって補給線が断たれることを想定した自給自足体制の確立と、空爆と艦砲射撃による攻撃からの防御手段として各重要施設を内蔵した地下要塞の構築であった。特に食料確保のために田畑を作るように命令を下した際は、今村自身も畑を耕していたという。
これらのことからアメリカ軍はラバウルを攻略することで発生するであろう多大な損害を回避すべく、周辺部を制圧することで孤立させて無力化する戦略を採用することになった。これにより、ラバウルは戦略的に無力化されたものの、アメリカ軍は終戦までラバウル牽制のために一定数の兵力を配置し続けることになる。
戦後
終戦後、日本本土への復員の目処が立たず、早くても数年後という情報を得たことから、自給自足体制を維持するとともにラバウル防衛の海軍側責任者草鹿任一中将の発案により、陸海軍一体となった兵隊教育体制を構築している。これは、復員後の兵士たちが日本復興に原動力になることを期待しての施策であり、そのために旧制中学程度の様々な教科書を作成して各部隊に配布している。
1946年に今村はオーストラリアによって軍事裁判にかけられることになる。今村本人に有罪となりうる罪科はなかったものの、徹底的に部下を庇い続ける弁護活動によって責任を一身に背負い、さらに今村に敗退した汚名を雪ぎたいオーストラリア軍の方針で一度は死刑になりかけたが、今村の無罪を主張する証言が集ったことから禁固10年が判決で言い渡されることとなった。判決後、その身柄はバタビアのオランダ政府に移され、今度はオランダ軍による軍事裁判にかけられることになった。
オランダ側の裁判でもまた今村に死刑が求刑されているものの、やはり今村の無罪を主張する証言が次々と集ったことから最終的に無罪となっている。ここでも、今村は部下を庇い続けており、部下の裁判には率先して赴いて弁護している。
開戦初期に今村がジャワを占領した後、政治犯釈放の指示により入獄中であった独立運動の指導者スカルノ(後のインドネシア初代大統領)を始めとした独立運動家を釈放したことと、軍政において公平仁愛に満ちた施政を行っていたことから、インドネシア独立軍はその恩義に報いるべく今村救出作戦を立案している。もし今村が死刑になった場合は武装蜂起して身柄奪還の用意があることを、戦犯収容所に送り込まれた密使を通じて今村に伝えたものの、今村自身がそれを謝絶している。
軍事裁判はオーストラリアでの判決である禁固10年の刑のみが確定し、それに伴って東京の巣鴨に送られた。巣鴨拘置所に入った今村は、オーストラリア裁判で有罪となった部下たちが服役している赤道近くのマヌス島で、部下たちと一緒に服したいという請願運動を起こした。今村夫人を通じてそれを知ることとなった連合軍総司令官マッカーサーは感心し、「日本に来てからはじめて真の武士道に触れた思いであった。私はすぐに許可するように命じた」と語ったという。
今村は刑期満了後に日本に帰国したが、それ以降は自宅に謹慎小屋を作って自らをそこへ幽閉した。軍人恩給だけの収入で質素な生活を続けつつ、回顧録を出版してその印税を元部下たちや戦没者遺族への援助に用いていた。その贖罪の行動につけこんで元部下を騙る者も現れたが、今村は騙されていることを承知の上であえて拒まなかったという。
1968年(昭和43年)10月4日死去。
著書
- 自伝『私記・一軍人六十年の哀歓』
- 『今村均回顧録 正・続』(芙蓉書房出版、新版1993年)
- 我ら戦争犯罪人にあらず 復刊「幽囚回顧録」(産経新聞出版)
関連タグ
人物
水木しげる-「私のあった人の中で一番温かさを感じる人だった」と、ラバウルでの兵卒時代に今村と会ったときの印象を述べている。