太平洋戦争期に南方の日本海軍を指揮した海軍司令長官の1人。石川県の名家草鹿家の出身で、連合艦隊参謀長の草鹿龍之介海軍中将は従兄弟になる。
経歴
太平洋戦争開戦前
衆議院議員である草鹿甲子太郎の子として、石川県江沼郡大聖寺町(現・加賀市)に生まれ、地元の旧制中学及び高校へ進学していたが退学し、海軍兵学校に入校。優秀な成績を修めて卒業し、海軍では砲術畑を歩むことになる。海軍でも有数の砲術権威者として、後方では砲術教官職や砲術学校校長、現場では山城や長門の砲術長、北上や扶桑の艦長を歴任している。
日中戦争勃発後の1937年に第一航空戦隊司令官、1938年には支那方面艦隊参謀長兼第三艦隊参謀長の任務に就き、中国大陸方面での海上警備活動や中国国民党との戦闘を経験している。その後は教育局長や海軍兵学校校長などの、教育畑で人材育成に勤めている。
太平洋戦争開戦後
1942年10月にガダルカナル島奪回を企図する軍令部により第十一航空艦隊司令長官に任命されて、同年12月には第八艦隊(旗艦:鳥海)を中核とする南東方面艦隊司令長官にも就いている。ラバウルに赴任した草鹿は、ガダルカナル島を堅守するアメリカ軍と空と海で熾烈な激戦を繰り広げている。
ガダルカナル島からの転進後、草鹿はソロモン諸島の各島々を巡る海戦を指揮したが、着実に戦力を増強して西進するアメリカ軍に対して、消耗した戦力の補充に苦しんだ日本軍は撤退を続けることになる。さらには南方における一大拠点であったトラック基地がアメリカ軍の攻撃により大きな被害を受け、これにより隷下の艦船や航空隊がラバウル基地を離れることになる。
わずかな警備部隊のみ手元に残ることになった草鹿は、ラバウル方面における陸軍の最上級指揮官・第八方面軍司令官の今村均大将と協力して自給自足を整えた長期篭城体制を構築している。戦後に彼が著した「ラバウル戦線異常なし-我等かく生きかく戦えり-」にこの頃の食糧事情について、特に動物性タンパク質の確保に苦慮し、様々な試行錯誤を行っていたことが記されている。
これらの方針により、戦力こそ磨耗していたが堅固な守備体制を築き上げることに成功し、攻略に多大な被害が出ることを恐れたアメリカ軍は飛び石作戦により周辺部を制圧する戦略を採用している。アメリカ軍の方針により戦略的に無力化されて孤立することになるが、日本軍は終戦までラバウル確保に成功している。
戦後
終戦時、連合国側は降伏文書調印の代表者として今村均大将を指名(すなわち最高責任者として、戦争犯罪を含めて全責任を負うことになる立場)するが、草鹿は「海軍は陸軍の指揮下に入ったことはない。建軍の本筋から考えて陸軍には海軍の降伏調印の権限は有さない」と主張し、降伏文書には「陸軍大将 今村均」と「海軍中将 草鹿任一」の連名で調印した。
降伏後、ラバウル基地では復員が始まるまでの間、自給自足体制維持に奔走しつつ、現地に残留した日本軍兵士のために旧制中学を基準とした教科書を作成し、各部隊へ配布した上で日本復興のための人材育成を行っている。これは海軍兵学校などで教育に携わり、生徒である士官候補生にも深く慕われていた草鹿の発案によるものであった。
連合軍(主にオーストラリア軍)による戦犯調査や軍事裁判では、徹底的に部下を庇う発言や行動に終始し、自らが命令したこと以外の全く知らない事柄まで「自分の責任である、私を罰することで部下の責任を問わないで欲しい」と主張し、連合国側に高潔な人物であると印象付けている。また、連合国兵士より日本兵が体罰を受けていたところに出くわしたとき、自ら止めに入って身代わりとして殴られて耐えている。
戦犯指名こそ受けたものの嫌疑なしとして無罪となり1947年に帰国後、東京裁判において連合国側の裁判担当と徹底的に口論を繰り広げて、これにより嫌日家だった者からも尊敬すべき日本人として思われるようになる。
予備役編入後は鎌倉に居住し製本・出版業に携わる傍ら、生活が困窮した元軍人たち救済のために軍人恩給の復活運動に尽力している。また海軍ラバウル方面海会長に就任して戦没者の慰霊と遺骨回収事業を積極的に行い、高齢で健康状態が悪化して周囲が止める状態になっていても南方へと赴いていた。
1972年8月24日死去。
逸話
気さくであるものの短気かつ頑固な性格であり、筋の通らないことに関しては一切妥協せず、たとえ上官であっても遠慮なしに論争することから海軍内では浮いていた。しかし、部下に対しては面倒見が良く酒宴の席ではくだけた態度を見せることから、配下の者たちの人望は厚かったという。
戦後も旧部下たちの支援を積極的に行っており、復員局に毎日のように訪れては部下たちの復員状況を確認していた。そのため復員局職員に顔を覚えられ、「日本海軍の司令官は数多いが、俺の部下に変わったことがないか?といまだに訪ねてこられるのは草鹿さんだけだ」と尊敬されていた。
ただ、この頑固で妥協しない性格により「味方に殺されかけて油を泳いだが海軍を許した海より心の深い」今村大将を怒らせてしまったこともある。
海軍兵学校校長時代は同期生や上司から「行儀見習いにもう一度兵学校に入学することになった」と揶揄されていたが、「生徒に示す」と題して歌と作ったり生徒と共に学ぶという姿勢で校長を務め、生徒たちからは「任ちゃん校長」と慕われていた。戦後、クラス会に毎年のように出席していたが、その度に「戦死した生徒に相済まぬ。申し訳ない」と口癖のように言っていた。
連合艦隊司令長官山本五十六元帥とは練習艦隊において指導官と士官候補生の関係であり、親しく交流を続けていた。戦線視察のためラバウル基地を一式陸上攻撃機に乗って飛び立った山本五十六を、草鹿は飛行場で見送っている。後刻、撃墜と戦死の報が届いたとき、草鹿は「(護衛を断り、単機で視察に出たがっていた山本に対して)無理を押し通してもっと多くの護衛を就けるべきだった」と大きく悲嘆していたという。1970年にブーゲンビル島の墜落現場を訪れ、「長官、遅くなりましたが、草鹿ただいま参りました」と慰霊している。
ソロモン諸島方面で敵として相対し、お互いに数多くの艦船と部下を失ったアーレイ・バークアメリカ海軍大将と、戦後に面識を得て親交を結んでいる。嫌日家として有名なバークであったが、草鹿たち旧海軍将校との交流を通じて親日家となり、海上自衛隊の創設や日本占領統治の早期解除へと尽力することになる。
著書
ラバウル戦線異状なし-我等かく生きかく戦えり-