概要
扶桑型戦艦の一番艦。純粋な戦艦としては、日本初の超弩級艦であり、竣工時は世界最大の戦艦だった。
建造の経緯や設計の特徴については、扶桑型を参照。
大戦まで
1915年に竣工すると、すぐに第一艦隊旗艦となった。第一艦隊司令長官は連合艦隊司令長官を兼ねるのが日本海軍の通例だが、日露戦争後より第一次大戦ごろまでは連合艦隊が設置されなかった時期なので、この頃は第一艦隊旗艦こそが日本海軍の艦艇で一番名誉あるものであったろう。
1930年、扶桑は近代化改装を受けたが、この時今まで後ろを向いていた3番砲塔を前に向け直した(山城はそのまま)。このため、艦橋の根元がえぐれるような形となり、設備を高く積み上げたこともあってあの不安定ぽい艦橋が生まれた。
大東亜戦争において
開戦時には真珠湾攻撃を行った南雲機動部隊に曳航が必要な艦が発生した時などに備えて支援するため、1941年12月8日に柱島から出撃した。
1942年4月18日に特設監視艇が日本に接近する米空母を発見、これを攻撃するため他の艦と共に扶桑も出撃したが、米空母は既に反転し離脱していたため捕捉することは出来なかった。
ミッドウェー海戦では主力部隊の一員として出撃。扶桑たちはアッツ、キスカ両島攻略支援のため北上、必要があれば主力部隊に合流できるようにするためキスカ島南方500浬の地点に向かうように命令された。
6月5日には主力部隊に合流せよと命令を受けて南下していたが、ミッドウェー攻略作戦が中止されたため日本へ帰還した。その後は国内に留まり訓練を続けていた。
1943年10月ごろにはトラック泊地に進出。
1944年2月ごろにリンガ泊地に移動、5月ごろにはあ号作戦に参加するためタウイタウイ泊地に移動する。
しかし、ビアク島に米軍が上陸。扶桑はビアク島の米軍攻撃のためダバオに移動し、6月には渾作戦に参加するが誤報などにより作戦は中止されダバオに帰還した。
1944年10月に米軍がフィリピンのレイテ島に上陸した際、西村艦隊として姉妹艦山城他と共にレイテ湾に殴りこみをかけたが25日未明、レイテ湾南方のスリガオ海峡で米艦隊の待ち伏せ攻撃を受けた(レイテ沖海戦)。
その際、複数の魚雷が命中(一説には4本とも)し落伍、約30分後に大爆発、艦体が真っ二つに折れた。艦体切断後も約1時間持ちこたえていたものの、遂に力尽きて艦首部分から転覆、沈没。転覆したまま浮かんでいた艦尾部分も米軍の手で処分された。
当時の魚雷の威力が改装時に想定されていた威力よりも大幅に増大していたとはいえ、生存者10人前後という悲惨極まりない最期を遂げた(戦後の資料では「生存者なし」とする記述も多かったが、諸説あるものの、現在では7~10人前後の生存者がいたとされており、生存者の手記も存在する)。
このスリガオ海峡での海戦で山城も撃沈され、西村艦隊で生還したのは駆逐艦時雨のみだった。
諸元
新造時
全長 | 205.1m |
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全幅 | 29m |
基準排水量 | 30600t |
公試排水量 | 35900t |
武装 |
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装甲 |
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速力 | 22.5ノット |
乗員 | 1193名 |
最終状態
全長 | 212.8m |
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全幅 | 33m |
基準排水量 | 34700t |
公試排水量 | 39154t |
武装 |
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航空兵装 |
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装甲 |
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速力 | 24.7ノット |
乗員 | 1396名 |
外見
近代化改装を繰り返した結果の、ジェンガかはたまた九龍城かと揶揄されるほど見た目に不安な艦橋が特徴であり、この独特な外観を好む人もいる。違法建築艦橋と呼ばれることもある。
↑「戦艦扶桑」タグがついているのはそうした事情による。
検索について
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