概要
戦艦の定義は一般的に「選択し得る最大の砲と、それに対応する防御力をもった軍艦」となる。
というとわかりづらいが、要するに巨大な大砲で敵とバカスカ撃ち合うための軍艦である。よって圧倒的な火力と防御力を兼ね備えるが、一方で船体の巨大化は避け得ず、概して機動力は低い。
…と言われるが、第一次世界大戦の「ユトランド沖海戦」における戦訓から、「頑丈だけど遅くて強力な砲を持つ」または「軽くて速いがそこそこの打撃力を持つ」戦艦のどちらのコンセプトも実戦では役立たずという事が判明したので、以後は「戦闘維持の為に適切な装甲を配置しつつ、機動力と打撃力のバランスを取る」というコンセプトが世界中の海軍の統一した設計方針となった。
艦隊戦においては他艦を圧倒しリアルチートと化す他、陸上では自重で動けなくなるので運用不可能な口径の巨砲を以って対地艦砲射撃を行うと、ほぼ一方的に地上部隊を撃破することができる。一方コスト面では建造費用だけで国家予算の数パーセントを要し、毎年莫大な維持費で国家予算を圧迫するとんでもない兵器であった。
なお現在までに全ての戦艦は海軍での役目を終えており、現役の戦艦は1隻も存在しない。
戦艦とは(もう少し詳しく)
前述の通り、戦艦は可能な限りの巨砲と、それに対応した装甲を持った軍艦である。
当初より「〇〇cm以上の砲を持つ艦が戦艦」と言う定義があったわけではないが、19世紀末には20cm代後半~30cmクラスの口径の砲を持つ戦艦が登場しており、1922年のワシントン海軍軍縮条約で戦艦の次に大型の砲を積む「巡洋艦の主砲口径は8インチ(20.3cm)以下」と定められたため、戦艦とは概ねこれより大きい主砲を持つ、と考えてもらって構わない。
なお同条約では「戦艦の主砲口径は16インチ(約41cm)以下」という上限も定められ、各国はこれを超える主砲の研究はしていたものの、歴史上実際に装備したのは大日本帝国の大和型戦艦のみであった。
「主砲に対応する装甲」というのは、「自らが想定する戦闘距離で、自らの主砲と同じ口径の敵弾に耐える」という意味であり、距離を問わずに耐えられる前提というわけではない点に注意。要するに、自艦の望む適切な戦闘距離であれば、自艦より規模の小さい敵艦の攻撃に耐え、逆に自艦より規模の小さい敵艦の装甲は確実に貫く事が可能となるため、絶対に負けはしない。それが戦艦の役割である。
つまりより大きな戦艦は格下の戦艦およびそれ以外の艦に対して圧倒的に有利となるため、後述する大艦巨砲主義という考え方に繋がっていった。
なお「自らの主砲と同じ口径の敵弾に耐える」という部分は大まかな目安であり、攻撃力をより強化したり防御を妥協したりして満たさない場合も多々あったが、それをもって「戦艦ではない」ということではないので注意。そもそも"自らの主砲に耐える"という条件は結果論であり、本来は"想定する敵国の戦艦の主砲に耐える"のが目的である。技術的限界や条約などで彼我の主砲口径はだいたい同じくらいになっている場合が殆どだったので、結果的にじゃあ自分の主砲弾に耐えられれば良い、という事になっているだけである。大和型戦艦も自らの18インチ級主砲に耐える装甲となっているのは、自らが条約破棄を前提とした艦である以上、敵も同クラスの戦艦をお出ししてくるのは十分考えられたからである。
戦艦のバイタルパートの装甲ともなると厚さ数十cmの特別な鉄鋼であり、遠距離からの巨砲に耐えるかどうかをテストするにも大変な労力と予算と時間が必要になる。また戦艦クラスの巨艦は設計をするだけでもこれまた数か月かかる程の時間が必要になるため、例えば既に問題が無いことがわかっている前級が存在する場合など、主砲は一段強化するが船体や装甲は敢えてそのままとし、設計にかかる期間の節約やリスク回避を優先させる場合も多かった。
よく言われるところのノースカロライナ級やアイオワ級などがこのパターンであり、巡洋戦艦などと揶揄される場合もあるが、装甲を薄くしたのではなく前級より主砲を強化して装甲はそのままとしただけであるため、巡洋戦艦とは考え方が違うのである。
また前述した「自らが想定する戦闘距離」というのも忘れられがちだが重要なファクターであり、戦艦には砲と装甲を維持しつつ可能な限りの高速性も求められた。鈍重なイメージのつきまとう戦艦であるが、敵に肉薄や逃亡を許してしまうと最強の攻防力も発揮できないため、他の性能を優先するため妥協される事はあっても、足はどれだけ遅くとも良いとされた戦艦は実は存在しないのである。
また戦艦は鈍足のイメージが強いが、それはあくまで駆逐艦や巡洋艦に比べればの話であり、戦闘艦艇であるため補給艦や輸送艦、揚陸艦などに対しては相当に高い速力を持つ。
巨大な船体により海が荒れていても安定して速力を発揮できたため、時化や嵐の中では護衛の駆逐艦が戦艦についていけないということも多かった。
第二次大戦時の戦艦で巡航速度は13~18kt、最高速は22~33ktほどにもなり、これは例えば小型の漁船や通常のカーフェリー等が追いつけるようなスピードではない。
ちなみに戦艦は存在した期間が19世紀後半から20世紀後半の100年間ほど、そのうち海軍の主戦力として世界にその存在を轟かせたのは20世紀前半のわずか50年間ほどと、その重厚なイメージとは裏腹に活躍期間は非常に短く、時代の徒花の見本のような兵器であった。故に所有した実績のある国家も相応に少なく、その時代に国力の大きかった国だけが戦艦を所有しており、戦艦という存在に全く馴染みの無い国も多い。
戦艦に発する用語として、スケールの大きいモノの比喩としての「超弩級」があるが、これは後述の「超弩級戦艦」という分類名が始まりである。
また「大艦巨砲主義」とは敵よりも大きな砲を持つ(=敵よりも大きな船体を持つ)戦艦を揃え、敵国をその攻撃力と防御力で圧倒することを指すが、そんなことができるのは戦艦だけであり、つまり完全に戦艦のためだけを目的とした考え方であった。
戦艦の軍事的意義が薄れてしまった今日では軍事的には意味を持つものではなく、従ってどちらかと言えば否定的な意味合いで語られることが多く、比喩表現として使われる場合はほぼ否定的なものになる。(かつてプロ野球の巨人がFAで4番打者ばかり集めた打線を誇っていた時など)。
なお、軍に属する戦闘艦(Combatant Ship、戦艦や巡洋戦艦のほか、巡洋艦、駆逐艦、空母、フリゲートなど)一般を指す俗称として「戦艦」が使われることも多々ある。これは日本語の用法としては誤用(正しくは「軍艦」)だが、中国語では一般に軍艦(Warship、戦闘艦のほか輸送艦などの補助艦艇を含む)を「戦艦」と呼び、本稿における「戦艦」に相当するのは「戦列艦」、「戦闘艦」、あるいは「主力艦(巡洋戦艦を含む)」である。
同じ誤用例として戦車←→軍用車両(または装甲車両)、戦闘機←→軍用機がある。
歴史
前史
戦艦の始祖といわれるのは、南北戦争において北軍が使用した装甲艦モニターである。
モニター、奥は南軍の装甲艦バージニアである。こちらも奇天烈な艦影だが、旋回砲塔は持たない。
装甲艦船体の殆どは、敵弾による被害を防ぐため水中にあり、水面ギリギリの上甲板と装甲化された旋回砲塔のみが水面上に出ている。その珍妙極まりない艦影はしばしば「筏の上のチーズ箱」と形容された。
1862年のハンプトン・ローズ海戦では、前日の襲撃で北軍の木造軍艦を一方的に撫で斬りにした南軍の装甲艦バージニアと交戦。これを撃退し、旋回砲塔の有用性を示した。
一方低い船体と重い砲塔は荒天にめっぽう弱く、同年の大晦日、高波に襲われて敢え無く難破した。
装甲艦から戦艦へ
外洋を航行可能な装甲艦が登場するのは、1860年に就役したフランス海軍のラ・グロワールと、翌年に就役したイギリス海軍のウォーリアからである。ウォーリアは初の全鉄製の高速、重武装、重装甲艦であり、初の戦艦と言われることもある。このような十分に装甲された装甲艦を艦砲で撃沈するのは困難であると考えられた。
このため、撃沈のための武装として古代の兵装・戦法とされていた衝角(敵艦攻撃用の船首喫水下の出っ張り)が復活することになる。1866年のリッサ海戦では、オーストリア海軍の衝角攻撃によってイタリア海軍の装甲艦が撃沈された。
主砲そのものは『敵戦艦を撃沈しうる兵器』とは認識されておらず、用途に合わせ主砲、中間砲、副砲、補助砲など、様々な口径の砲が共存していた。
この頃の巨砲を搭載した装甲艦の主流は乾舷(水面から甲板の間の高さ)が低いモニター艦や海防戦艦と呼ばれるもので、強力な打撃力を持つ反面速力が遅く航洋性能が低かった。この種の艦は近代戦艦が現れてからも中小国を中心に建造されつづけている。
1890年にフランス海軍は舷側全体に速射砲弾を防御できうる程度の装甲を貼り巡らせ防護巡洋艦に準じる航洋性能を合わせ持つ初の装甲巡洋艦デュピュイ・ド・ロームを建造し、イギリスを除く各国が続々とこれに追随した。
1892年にイギリス海軍で34.3cm砲を搭載した戦艦ロイヤル・ソブリンが誕生すると、これが強靭な装甲と旋回砲塔を持ち、乾舷が高く良好な外洋航行能力を兼ね備えた、近代戦艦の嚆矢となった。
こうして、従来の装甲艦は装甲巡洋艦・戦艦を派生させた。
当初は装備された各砲が個別に照準を設定して射撃を行っていた。これを各個撃ち方といい、射撃精度はその砲の砲員の練度と経験に頼っていた。射程距離限界の遠距離での主砲の撃ちあいで砲弾が命中する事は滅多になく、やがて接近しての副砲を併用しての撃ち合いに移行するのが、戦艦の戦闘セオリーであった。当時の戦艦同士の海戦は数百メートルまで接近して撃ち合う状況であり、敵艦にとどめを刺すための兵器として魚雷発射管も装備していた。
そのくらいの射撃距離であれば撃った砲弾の弾着が砲側から確認できるので、その方法でもよかったのだ。
しかし大砲の性能が向上し、射程距離が数千メートルに達してくると、砲を数十門備える戦艦の射撃による弾着の水柱はとんでもない数になる上に射撃から命中まで10秒以上かかることがザラになってしまい、どの砲による弾着なのか観測が困難なため砲員側では射撃の修正が難しい状況に陥っていた。
弩級戦艦の登場
日清戦争の黄海海戦では、巡洋艦のみを主戦力した日本艦隊と清国の戦艦を含む艦隊が砲撃戦を展開し、小口径の速射砲を叩き込み続けた日本側が清国巡洋艦の多数を撃破し海戦自体は勝利した。その一方で清国の戦艦二隻は多数の被弾で損害を受けながらも脱出に成功。日本の巡洋艦は清国戦艦の放ったたった一発の砲弾で大破してしまい、「敵戦艦に対しては魚雷を打ち込むか、同等以上の戦艦を当てないと勝てない」というという事実を世界に知らしめた。
日露戦争において行われた日本海海戦では、日本海軍は英海軍の考案した斉射(せいしゃ)と呼ばれる戦法を行った。これは長距離での砲撃における命中率の向上を図るための戦法で、艦橋から測距と着弾観測を行い、その結果に基き各砲に方位・仰角を指示し、砲側では一切射撃の修正を行わず、艦橋からの指示で全ての砲が同じ照準・タイミングで射撃を行うというものだった。日本海海戦は日本海軍の一方的な勝利に終わり、斉射の有用性と「1万トンを超える戦艦であっても砲撃で撃沈しうる」という事実を世界に知らしめた。
1905年、斉射の有効性を強く認識したジョン・アーバスノット・フィッシャー提督の主導によりイギリスで戦艦ドレッドノートが建造された。この艦は斉射をより効率的に行うため、舷側の副砲や中間砲を廃止、同口径の主砲を両側に攻撃できる中心軸線上に集中配置した。これによって斉射できる主砲の数は最大四基八門となり単純に倍増、「単艦で従来艦二隻の戦力」と謳われたが、二隻分の火力を単艦で斉射できるというのはそれ以上の攻撃力をもたらした。
さらには小型高出力の蒸気タービンの採用により、従来のレシプロ蒸気機関の戦艦が18ノット程度の速力であったのに対し、一躍21ノットもの高速を実現、常に自艦に有利な戦闘距離を保つことができた。
従来の戦艦はドレッドノートと交戦した場合、逃げることも間合いを詰めることも出来ず、長距離火力を受け続けるしかないという革命的な戦艦であった。
既存の戦艦は一気に旧式化し、以後戦艦はドレッドノートが基準となり「準弩級」「弩級」「超弩級」と区分され、さらに旧式の艦は「前弩級」と呼ばれるようになった。
三笠、前後の旋回砲塔に入っているのが主砲の30.5cm連装砲、舷側に並んだ砲のうち、上段両端と下段が副砲の15.2cm砲、上段内側が補助砲の7.6cm砲である。門数こそ多いが、主砲は二基四門のみ。
前弩級戦艦摂津。主砲は六基十二門にも増加し、長距離での火力は前弩級戦艦のそれを大きく上回った。ただし中心軸上に設置されたのは二基のみで、残り四基は両舷に二基ずつの設置で、斉射できる最大門数はドレッドノートと同じ四基八門である。
弩級戦艦大艦巨砲主義と建艦競走
ドレッドノート以降、主砲が有用な兵器と認識されると、各国ともより強力な主砲と、それを搭載する大型艦の開発を競う状況になった。『主力艦』たる新鋭戦艦は海戦、ひいては戦争そのものの勝敗を決する最重要兵器と考えられ、戦艦を建造できない中小国でも速力と航行力、装甲を割り切って沿岸防衛用途に特化し、戦艦に準ずる攻撃力を持つ海防戦艦の建造が行われた。
意外なところでは南米やギリシャ、トルコ等も近隣国への対抗からそれぞれ弩級戦艦を列強に発注し、保持していたりする。
一方列強にとって戦艦は単なる決戦兵器ではなく重要な戦略兵器であり、他国より強力な戦艦を保有することは安全保障に限らず、強力な外交カードとなり、国威を示すものであった。
特に世界最大の海軍保有国であったイギリスとそれに次ぐドイツは熾烈な建艦競走を繰り広げた。また、日本海海戦において戦艦に準ずる攻撃力をもつ装甲巡洋艦が戦艦と協力して多大な戦果を挙げたことから、これを拡大し『防御力は犠牲にするが、戦艦並みの攻撃力と巡洋艦並みの速力をもつ』というコンセプトの巡洋戦艦も日本とイギリスでは重要視され、ドイツにおいても多数建造された。
金剛。35.6cm砲という当時世界最大の主砲と高い速力を兼ね備えた巡洋戦艦であった。
日本海軍の巡洋戦艦インヴィンシブル。ドレッドノートと平行して建造された世界初の巡洋戦艦である。主砲はドレッドノートと同じ30.5cm砲だが、機関出力八割増しで速力は25.5ノット。反面防御力は他国の装甲巡洋艦と比べてすら貧弱である。
イギリス海軍の巡洋戦艦ドイツ海軍の巡洋戦艦リュッツォウ。ドイツの巡洋戦艦は、日英のそれとはコンセプトが若干異なっており、『戦艦に準ずる主砲と防御力を持ち、速力は巡洋艦なみ』というものであった。
第一次世界大戦
第一次世界大戦においては、主にイギリス海軍とドイツ海軍の間で数々の海戦が繰り広げられたが、1916年にデンマークのユトランド半島沖で行われたユトランド沖海戦は、同大戦における唯一の主力艦同士の決戦となり、また海軍史においても大きな意味を持つ海戦となった。
両軍とも高速の巡洋戦艦を前衛として先行させ、その後を低速の戦艦部隊が追随した。この前衛同士が会敵し、英独の巡洋戦艦同士による激しい砲撃戦が行われた後、両軍の戦艦部隊も戦場に到着したが、戦艦同士の会敵から僅か数分でドイツ艦隊は反転撤退し、両軍の戦艦が満足に砲火を交える間も無く戦闘は終結してしまった。このため、戦争全体には決定的な影響を与えることはなく、以後2年も戦争は続いた。
この海戦では鈍足な戦艦は戦闘に参加すらできないと判明。以後、戦艦は高速力を持つことが必須となった。またこの海戦における主力艦の損失は、ドイツが前弩級戦艦ポンメルンの撃沈と、巡洋戦艦リュッツォーが大破のち自沈に留まったのに対し、イギリスはインディファティガブル、クイーン・メリー、インヴィンシブルの三隻の巡洋戦艦を失った他、巡洋戦艦ライオンも大破した。
これによりイギリス式巡洋戦艦のコンセプトである「速度は装甲」が、砲の射程の伸延により成り立たなくなっていることが判明し、建造中の巡洋戦艦が大幅な改設計を余儀なくされた。それまでは横から飛来する敵弾を防ぐため、水面に対し垂直に設置された垂直防御が重視されていたが、砲弾は真横からではなく上から降ってくるものとなり、クイーン・メリーは砲弾が垂直防御装甲を飛び越えて弾薬庫を直撃、爆沈した(クイーン・メリーには日本海軍の下村忠助中佐が観戦武官として乗艦していたが、同艦と運命を共にしている)。
また、日本でもユトランド沖海戦の戦訓を踏まえて全艦の防御力の再検証が実施され、全ての戦艦で水平防御が不十分という結論となった。計画中の長門、陸奥は水平防御の増強を中心とした設計改善が行われた。
このようにユトランド沖海戦の戦訓を元に建造された戦艦をポスト・ユトランド型戦艦と言う。
なお、ユトランド沖海戦の「これまでの戦艦は足が遅すぎる」「これまでの巡洋戦艦は装甲が無さすぎる」という戦訓から両者は統合され、以後設計される主力戦艦は「高速戦艦」化していくこととなる。
フッド。ユトランド沖海戦の戦訓から防御力の大幅な増強が行われ、巡洋戦艦としては格段の防御力を手に入れた。
ポスト・ユトランド型巡洋戦艦長門。
日本のポスト・ユトランド型戦艦海軍休日(ネイバルホリデー)
第一次世界大戦後、凋落したドイツ海軍に代わって日本海軍とアメリカ海軍が台頭しはじめ、日米英の三ヶ国による建艦競争が始まった。世界一の座を狙うアメリカで大型艦の建造ラッシュが始まると、対抗して日本では戦艦8隻、巡洋戦艦8隻を戦力の中心とする八八艦隊の整備が開始され、イギリスも両国に必死で追い縋った。
各国とも大艦巨砲主義のもとに艦隊整備を進めたため、主力艦の巨大化は留まるところを知らず、建艦費用や維持費用は莫大なものになっていった。特に先述の高速戦艦化により、戦艦は攻・防・走の全てにに高いレベルを要求されることとなり、建造費は膨れ上がり続け、戦艦という艦種自体が列強国以外は所持すらできないものとなった。日本では海軍費は歳出の3分の1を占める5億円に達し、さらに増加する傾向にあった。仮想敵国よりも高性能を求めて戦艦はますます大型・複雑・高価となり、その一方で魚雷を完全に防ぐ事は難しいため水雷艇や新兵器の潜水艦など、その存在を脅かす存在も現れ始め、戦艦は戦場に投入し難い兵器となっていった。(※この当時、航空機はまだ洋上で戦艦を脅かす程の能力は持っていなかった)
莫大な海軍費に苦しんだ列強各国は、1922年ワシントン海軍軍縮条約を締結、主力艦の保有量が国ごとに制限され、計画中及び建造中の主力艦の廃棄と、主力艦の建造を向こう十年休止することが定められた。建造休止はロンドン海軍軍縮条約によってさらに五年延長され、1936年に失効するまでの十五年間、三ヶ国における主力艦の建艦競争は収束した。
空母にも保有制限が課せられたが成立間もない艦種であり、主力とはみなされていなかった。したがって各国ともその保有枠に余裕があり、建造中止となった戦艦の船体を空母に改装することで赤城、加賀、レキシントン級といったそれまでにない巨大空母が登場した。
一方、フランスとイタリアはワシントン海軍軍縮条約に参加したものの、ロンドン海軍軍縮条約には参加せず、1933年から主力艦の建造を再開。そこにドイツが加わって独仏伊の三ヶ国による建艦競争が勃発した。
1936年の条約失効を前に1935年、第二次ロンドン海軍軍縮会議が開かれた。しかし予備交渉が難航したため日本は条約から脱退。日本の脱退により意味を失ったため36年の条約失効をもって海軍休日は終了、各国は再び大型艦の建造を再開した。
条約破棄と、最後の建艦競争
ドイツが条約下でドイッチュラント級を建造したのに対し、フランスはダンケルク級で対抗、これにイタリアがリットリオ級、ドイツがシャルンホルスト級を建造して対抗すると、フランスはリシュリュー級戦艦の建造に着手、さらにはドイツがビスマルク級を建造するという壮絶な建艦競争が繰り広げられた。
一方、日英米でも軍縮条約での遅れを取り戻すべく怒涛の建艦ラッシュが始まった。アメリカは僅か3年の間にノースカロライナ級2隻、サウスダコタ級4隻、アイオワ級4隻を立て続けに就役させ、イギリスではキング・ジョージ5世級5隻、さらに日本では大和型戦艦2隻が建造された。
第二次世界大戦
建造費の高騰は戦艦の投入を非現実的なものとした。各国ともその使用に及び腰となり、トラック泊地の『大和ホテル』『武蔵旅館』、アルタフィヨルドのティルピッツのように泊地に引き篭もる例や、タラント空襲や真珠湾攻撃のように、航空攻撃によって港湾内で無力化される例が相次いだ。日本海軍の陸上攻撃機によるプリンス・オブ・ウェールズ撃沈により、作戦行動中の最新鋭戦艦すら航空攻撃のみで沈められる事態が現実となり、戦艦は『無敵の兵器』の座を追われることとなる。
一方で戦艦の強力な火砲は未だ有用であり、対地攻撃や空母機動部隊の護衛に供されて活躍をすることもあった。
無敵とは言えなくなったとはいえ大型艦艇ゆえに対空攻撃力も耐久力も相応に高く、外洋での作戦行動中に航空機によって撃沈された戦艦(巡洋戦艦)は前述のプリンスオブウェールズ、レパルス、ローマ、武蔵、大和の5隻しかおらず、僅かなりとも味方のエアカバーのある状態で航空機に沈められた戦艦は実は1隻も存在しない。
日本の戦艦に対する評価
「金剛型以外はろくに活躍していない」と言われるが、実際、金剛型以外の戦艦の出撃回数は非常に少ない。金剛型とそれ以外で消費燃料に差があるのかと言うとそうでもなく、遅い遅いと言われがちな速度も日本の戦艦は空母機動部隊に随伴できないほど遅い訳でもない。
ただし、当時の日本の燃料事情では多数の戦艦を同時に運用するのは無理があった。運用されるわずかな戦艦に金剛型が選ばれた理由は「古いので失っても痛く無い」という点にある。
日本海軍はマレー沖海戦によって世界に先駆けて航空戦力の有用性を知らしめたが、その結果、必要以上に航空機の能力を過大評価するようになっていった。艦隊が敵の航空戦力の行動圏内に入る事を極端に恐れ、運用コストも喪失した際の衝撃もケタ違いの戦艦の運用に及び腰となり、航空戦力のみを重視した戦略に傾いていったが、実際には練度十分の航空戦力とて空母のエアカバーを受けている状態の戦艦を撃沈することは難しく、真珠湾を最後にアメリカ戦艦をただの1隻も撃沈できなかったのは承知の通りである。逆にアメリカ海軍は日本の艦艇を沈める手段として航空戦力の増強には邁進していたが、並行して戦艦や大型巡洋艦も続々と就役させており、惜しみなく戦線に投入した。当然、国家財政を傾けて建造した日本の戦艦たちもその標的となる。
ちなみに、航空攻撃“のみ”によって喪失した連合軍側の戦艦はアリゾナ、オクラホマ、プリンス・オブ・ウェールズ、ローマの4隻(※ローマは欧州戦線での喪失のため日本海軍とは殆ど関係無い)。真珠湾攻撃によって破壊されたその他の戦艦も、アリゾナ、オクラホマ以外は、全て浮揚修復されレイテ沖海戦までに復帰している。またプリンス・オブ・ウェールズは東洋艦隊派遣以前にビスマルク追撃戦に参加しており、その際のダメージの回復が万全ではなかったとも言われている。
一方、日本側はと言うと、これまた航空攻撃“のみ”で喪失した戦艦は大和と武蔵の2隻のみである。(※欧州も入れるとドイツのティルピッツも航空攻撃で沈没している。)ただし、武蔵や大和の沈没は海戦史上空前絶後の猛攻を受けてのものである。
大和に至っては戦艦1隻・軽巡洋艦1隻・駆逐艦8隻に対し米軍は空母12隻で襲い掛かっており、空母に負けたのも事実だが数の暴力で負けたという面も強く。完全に空母に対して無力。と言えるかというとそうとも言い切れない。
結局、日本戦艦の低評価の理由は“使いどころを誤った”と言うのが結論だろう。
戦艦の終焉
1950年代以降、ミサイルの登場、そしてたゆまぬ高性能化により、空母の艦上機を抜きにしても戦闘は戦艦の主砲の射程圏外で行われるようになる。威力が強大化した対艦ミサイルによる攻撃はもはや装甲で防げるレベルを超えており、巨砲と重装甲の海戦における意義は完全に消滅。ミサイル駆逐艦の登場で防空艦としての意義すら失った戦艦は、各国で次々と廃止されていった。
戦艦の存在価値を完全に奪ったのはよく言われる空母ではなく、対艦ミサイルである。
空母が成し遂げたのは海戦の王座の奪取であり、陥落したとは言え戦艦は依然空母に次いで強力なユニットであった。戦艦を撃沈できる艦種に空母が加わっただけの状態であり、戦艦と空母(+条件次第で潜水艦)でしか倒せないのなら未だ戦艦に価値はあったのである。だからこそ空母が登場し発達していっても戦艦と空母は並び立つ存在であった。
ところが急速に発達してきた対艦ミサイルを搭載することにより、巡洋艦はおろか、駆逐艦、フリゲートですら戦艦を遠距離から撃破できてしまうとなれば話は別である。「あるクラス以上の敵艦を撃破できる艦砲」「それに耐える装甲」という存在そのものが不要になってしまったため、戦艦、そして同じ理由で重巡洋艦という艦種も存在価値を失い、消滅していった。
1960年代以降で戦艦を運用し続けたのはアメリカ海軍のみだが、1990年に勃発した湾岸戦争において戦艦の最後の出撃が行われた。
「ミズーリ」と「ウィスコンシン」がCIWSでの自衛能力、ハープーンミサイルでの艦対艦攻撃能力、トマホークミサイルでの艦対地超長距離攻撃能力を付与されており、陽動作戦及び長距離砲陣地や後方支援用施設の事前攻撃任務に就いた。
機雷の脅威もあって陸地へあまり近づけなかったが「砂漠の嵐」作戦ではトマホークミサイルによる長距離爆撃だけでなく艦砲射撃によりイラク軍砲兵陣地は沈黙、多くの軍施設の破壊に成功。
また、「砂漠の剣」作戦では合衆国海兵隊の支援にも艦砲射撃は使われ、海兵隊員を鼓舞することとなった。
艦砲射撃は心理的効果もあり、艦砲の榴弾では破壊の出来ない陣地に居ようとも着弾にイラク兵は恐怖し、着弾観測用にUAVも使用したことから上空にUAVが飛ぶだけでイラク軍将兵が艦砲射撃を受けると勘違いし、戦意喪失して降伏してきた事もあった。
なお、ミズーリに対し2発のシルクワーム対艦ミサイルによる攻撃が行われたが、1発はチャフによりかく乱されて海面へ落下、もう1発は護衛のイギリス海軍の42型駆逐艦「グロスター」が発射したシーダート対空ミサイルにより撃墜されている。
以上の戦果により、艦砲射撃の攻撃力・信頼性・持続性・全天候性から戦艦の戦術的意義は現代においても失われていないことが証明されたが、同時に大戦中から潜水艦に対して無力な点は変わっておらず、CIWSを装備したとはいえ多数の護衛艦艇を行動の度に必要とする戦艦を単なる浮き砲台として使うにはあまりにも維持費がかかり過ぎ、射撃指揮システムを扱える人材も高齢化していた。結局冷戦終結後の軍事費縮小に伴いアイオワ級戦艦も退役し、戦艦という艦種はいったん姿を消した。
珍しい一例としてロシア海軍のキーロフ級ミサイル巡洋艦は基準排水量2万4300トンと超弩級戦艦並みで、ジェーン海軍年鑑では巡洋戦艦に分類されているが、巡洋戦艦の定義である「戦艦と同等の大口径砲を持ち、高速性能を持つ」に該当せず、これは冷戦期の「ジェーン海軍年鑑」で暫々見られる実態と異なる記述の一つである。
現代的なミサイル艦が大型化したものであり、通常「巡洋戦艦」に分類されることはない。
主な戦艦
前弩級 | 第一次世界大戦 | ポストユトランド型 | 新戦艦 | |
日本 | 富士型、敷島型 | 河内型、金剛型、扶桑型、伊勢型 | 長門型 | 大和型 |
アメリカ | テキサス | ワイオミング級、ネバダ級、ペンシルベニア級、ニューメキシコ級、テネシー級 | コロラド級 | ノースカロライナ級、サウスダコタ級、アイオワ級 |
イギリス | ロイヤル・ソブリン、キング・エドワード7世 | ドレッドノート、オライオン級、初代キング・ジョージ5世級、クイーン・エリザベス級、フッド | ネルソン級 | キング・ジョージ5世級、ヴァンガード |
ドイツ | シュレジェン、シュレスヴィヒ・ホルシュタイン | ナッサウ級、バイエルン級 | ドイッチュラント級、シャルンホルスト級、ビスマルク級 | |
フランス | グロワール | プロヴァンス級 | ダンケルク級、リシュリュー級 | |
イタリア | レ・ウンベルト級 | ダンテ・アリギエーリ,コンテ・ディ・カブール級、カイオ・ドゥイリオ級 | ヴィットリオ・ヴェネト級 | |
ロシア・ソ連 | ツェサレーヴィチ、ボロジノ級、スウィアトイ・エフスターフィイ、インペラートル・パーヴェル1世級 | ガングート級、インペラトリッツァ・マリーヤ級 | ||
その他 | 定遠、鎮遠(清) | ミナス・ジェライス級(ブラジル)、リバタビア級(アルゼンチン)、アルミランテ・ラトーレ(チリ) |
大日本帝国海軍
日露戦争時の主力戦艦。ロシア海軍に対抗しうる戦艦としてイギリスに発注され、当時世界最大の戦艦として就役した。
黄海海戦、日本海海戦で主力戦艦として活躍した。
三笠は現在、横須賀港で記念館として保存されている。
日本海軍で最初で最後の弩級戦艦。
河内は横須賀海軍工廠で建造され、徳山湾で爆発事故により沈没。摂津は呉海軍工廠にて建造され、ワシントン海軍軍縮条約で戦艦「陸奥」を保有する代わりに保有枠を外れ、標的艦として終戦まで生き残った。
日本海軍は英国頼りだった主力艦を自国で賄うべく努力を続けていたが、技術不足は否めず、技術導入のためヴィッカース社に発注して金剛を建造。金剛の設計図を元に比叡が横須賀海軍工廠、榛名が川崎造船所(神戸)、霧島が三菱造船所(長崎)で建造された。
老齢艦ながら近代化改修により高速を得、空母機動部隊に随伴が可能で、日本海軍の戦艦としては最も活躍した。
大日本帝国海軍初の国産超弩級戦艦であり、世界で初めて排水量が三万トンを超えた戦艦であったが、設計の失敗により大改修を受け続け、「艦隊に居る方が珍しい」と言われた。太平洋戦争開戦時には異様な高さに積み上がった細長い艦橋が一つの特徴といえる艦影となっていた。
扶桑型の改良型で、改装により世界で唯一の航空戦艦となった。
航空戦艦化はミッドウェー海戦における主力4空母喪失の穴を埋めるための苦肉の策だったが、カタパルトにより発艦はできても着艦は不可能で、本級を発進した航空機は最寄の陸上基地や他の空母に降りるか、機体を捨ててパイロットのみ回収するしかなかった。
太平洋戦争開戦時の日本の主力戦艦。41cm(≒16インチ)砲を搭載した「ビッグ7」に名を連ね、国民に広く親しまれ日本海軍の象徴だった。
太平洋戦争中は温存策のため目立った活躍はなく、陸奥は柱島泊地で謎の爆発を起こし轟沈、長門は唯一行動可能な戦艦として終戦時まで残った。
世界最大の戦艦。大和型戦艦の存在は軍事機密であり、戦後まで国民に知らされることはなかった。
口径46cm(≒18インチ)の主砲を搭載、徹底した集中防御により、攻守共に世界最高レベルにあったが、温存され目立った活躍はなかった。
武蔵はシブヤン海、大和は坊ノ岬沖で米空母の攻撃を受けて沈没した。
アメリカ合衆国海軍
- アイオワ級戦艦
同型艦「アイオワ」「ニュージャージー」「ミズーリ」「ウィスコンシン」
アメリカ海軍が最後に建造した戦艦。
アイオワ級の高速力は砲戦以外の任務においても非常に有用であり、大戦後もアイオワ級を長く生き延びさせることにもなった。
戦後は主に予備役にあったものの、ベトナム戦争、湾岸戦争、レバノン内戦と近代化改修を受けながら度々現役復帰して艦砲射撃を行った。1992年のミズーリ退役を最後に全艦が退役、現在は全艦が博物館として一般公開されている。
イギリス王立海軍
同型艦なし。
戦艦の概念を一変させた革新的な艦。詳しくは本記事中の『弩級戦艦の登場』を参照されたい。
- クイーン・エリザベス級戦艦
同型艦「クイーン・エリザベス」「ウォースパイト」「バーラム」「ヴァリアント」「マレーヤ」
14インチ砲搭載戦艦を計画していたドイツに対し、15インチ砲搭載艦を配備することで優位を維持するために計画された。計画当初、15インチ砲の現物は存在しなかったが、海軍大臣ウィンストン・チャーチルのゴリ押しで主砲の完成前に船体と砲塔を設計するという前代未聞の建造となった。
ボイラーを新開発の重油専用缶としたため燃費は大きく向上し、従来機関兵が煤まみれになりながら行っていた石炭の積み込みや、ボイラーへの投入がバルブを開けるだけで済むようになった。
同型艦なし。
ユトランド沖海戦の戦訓を踏まえたポストユトランド型巡洋戦艦であり、従来のイギリス式巡洋戦艦に比べて格段の防御力を得た。
軍艦美の極致とも言われる巨大で均整の取れた艦影から戦間期はマイティフッドとして国民に親しまれたが、デンマーク海峡海戦で距離14kmからのビスマルクの砲撃が火薬庫に命中し、轟沈した。
- ネルソン級戦艦
日本が陸奥を保有する代償として、イギリスが得た二隻の16インチ砲搭載枠で建造され、世界のビッグ7に数えられた。
16インチ三連装砲塔を艦橋の前に三基集中配置という異形の艦型となった。建造後に数々の不備が発覚したものの、大戦中は各地で酷使され、傷みの激しかったロドネイは係留状態で終戦を迎えた。
同型艦「キング・ジョージ5世」「プリンス・オブ・ウェールズ」「デューク・オブ・ヨーク」「アンソン」「ハウ」
イギリスが海軍休日終了後に建造した艦級。チャーチル首相をして「戦艦のような物」と言わしめた。
14インチ四連装砲塔三基の予定だったが、重量超過のため2番砲塔は連装砲塔となった。四連装砲塔の初期の稼働率は低かった。
完成度はともかく、戦争中に5隻もの同型艦の就役を間に合わせた事で活躍度は各国の新戦艦の中でもトップクラスである。戦いは数だよ兄貴!
- 戦艦ヴァンガード
イギリス海軍最後の戦艦。英海軍が第二次大戦で喪失した戦艦の代替として建造され、戦後に完成。世界で最後に進水した戦艦になった(竣工はジャン・バールの方が後になったが)。
ドイツ海軍
同型艦「ドイッチュラント→リュッツオウ」「アドミラル・シェーア」「アドミラル・グラーフ・シュペー」
戦間期のドイツ海軍がヴェルサイユ条約下で完成させた装甲艦。英国の新聞でポケット戦艦と紹介されたが、実質巡洋艦である。
防御力を犠牲にし、戦艦を振り切れる速力と、重巡を圧倒できる攻撃力を持つ筈であったが、実際にはどちらも中途半端で、戦闘力的には平凡な艦であった。しかし、ドイツが制限下で有力な戦闘艦を完成させたことはイギリス、フランス両国に衝撃を与え、特にフランスには大規模な海軍拡充を強いるることで経済的負担をもたらしている。
実際の戦闘力よりも、巧みなプレゼンスで戦略的に成功した艦であると言える。
ドイッチュラント級に続いて建造された巡洋戦艦。
フランスのダンケルク級に対抗するために建造されたが、ダンケルク級に対抗できる性能はなかった。世界で最も美しい戦艦の一つともいわれる。
シャルンホルストは北岬沖海戦で沈没。グナイゼナウはヒトラーの「大型艦廃棄命令」により廃艦。
- ビスマルク級戦艦
ドイツ最後の超弩級戦艦。フランスのダンケルク級がバルト海に侵入することを阻止するための戦艦であったが、就役した時には既にフランスは降伏、ソ連とも不可侵条約を結び、バルト海における任務は完全に消滅していた。
ビスマルクはライン演習作戦(大西洋での通商破壊)のために出撃、これを阻止せんとするイギリス本国艦隊相手に大立ち回りを演じた末沈没した。
ティルピッツは損失を恐れてノルウェーのフィヨルド内に匿われたが、爆撃を受けて沈没した。
イタリア海軍
同型艦なし。宿敵であるオーストリア=ハンガリー帝国海軍に対抗すべく建造した戦艦である。第一次世界大戦では特に目立った戦績も挙げず、1928年に除籍され解体された。
同型艦「ヴィットリオ・ヴェネト」「リットリオ→イタリア」「インペロ」「ローマ
イタリア海軍最初で最後の超弩級戦艦。地中海の中しか移動しない前提で設計されているため航続距離は短い。その分を他のステータスに振っているため、バランスのとれた強力な艦となった。ローマは昨日までの友軍だったドイツ軍にフリッツXで撃沈された。
ロシア・ソビエト海軍
同型艦なし。映画「戦艦ポチョムキン」に登場。
黒海艦隊全体での一斉蜂起が計画されていたのだが、昼食の肉が腐っていたことが原因で予定より大幅に早くポチョムキン単独の蜂起が起きた。ポチョムキンは蜂起に賛同した水雷艇一隻を伴って反乱艦隊を編成し、黒海各地の港を転々とした。最終的に乗員はルーマニアに亡命、艦はルーマニア政府からロシア海軍に返還された。
同型艦「ガングート→オクチャブリスカヤ・レヴォリューツィヤ→ガングート」「ペトロパブロフスク→マラート→ペトロパブロフスク」「ポルタワ→フルンゼ」「セヴァストポリ→パリジスカヤ・コンムナ→セヴァストポリ」
ロシア海軍が初めて建造した弩級戦艦。
ペトロパブロフスクはマラート時代にハンス・ウルリッヒ・ルーデルに沈められたことがある。まあ、相手が悪かった(その後、浮揚され復帰)。
清国海軍
- 定遠級戦艦
中国が四千年の歴史の中で唯一保有した戦艦。
清国軍の近代化に伴い、ドイツのフルカン造船所に発注された。東洋一の堅艦と謳われ、1894年9月の日清戦争黄海海戦において日本海軍が多数の命中弾を浴びせたものの、厚い装甲のため無力化することはできなかった。
定遠は翌年2月、水雷艇の雷撃を受けて威海衛で擱座し自沈。鎮遠は威海衛で座礁し日本軍に鹵獲された。
戦艦をモチーフにしたキャラクター
艦隊これくしょん
蒼き鋼のアルペジオ
メンタルモデル 大戦艦級