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坊ノ岬沖海戦

ぼうのみさきおきかいせん

太平洋戦争の末期、天一号作戦の一環として出撃中の日本海軍とアメリカ海軍の間に起きた海戦。
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概要編集

1945年4月7日、天一号作戦(沖縄への水上特攻)のため進撃中の戦艦「大和」を旗艦とする第一遊撃部隊(第二艦隊)をアメリカ海軍第58任務部隊(空母機動部隊)が迎撃した事で生起した。

第一遊撃部隊は、旗艦大和と随伴する第二水雷戦隊9隻(軽巡洋艦矢矧、駆逐艦磯風浜風雪風初霜朝霜冬月涼月)で編成されており、戦闘後に雪風、初霜、冬月、涼月が帰還した。


経緯編集

日本海軍の状況編集

1944年10月後半に行われたレイテ沖海戦によって日本海軍連合艦隊は戦艦「武蔵」、空母「瑞鶴」、重巡愛宕」などの主力艦を喪失し、大規模な艦隊を編成して出撃させる力を失っていたが、戦艦「大和」を始めとしてまだいくらかの戦艦と航空母艦などの主力艦を保持していた。

しかしその実態は東南アジアとの輸送路を遮断された事による燃料不足により満足な訓練もままならない状態で、「大和」と軽巡矢矧」を旗艦とする第二水雷戦隊以外は一部の駆逐艦潜水艦海防艦などの小艦艇が行動を行っており、戦艦長門、「榛名」、航空戦艦伊勢」、「日向」、重巡利根」、軽巡「大淀」、空母「天城」、「葛城」などの大型艦はなどに係留されて浮き砲台となっていた。

当初軍令部の考えでは大和も浮き砲台として係留される予定だったが、1945年2月に連合艦隊司令部は第二艦隊を特攻に使用したい意向を明らかにした為大和と二水戦は係留されなかった。

呉出港~徳山湾待機編集

硫黄島における日米の激戦がアメリカの勝利によって終わった直後の3月17日、第一遊撃部隊(第二艦隊)に出撃準備命令が発令された。

その内容は

「航空攻撃有利なる場合、1YB(第一遊撃部隊の略称)は特令により出撃し敵攻略部隊を撃滅す。本作戦を天一号作戦と呼称す」

であった。

しかし発令2日後の3月19日にアメリカ機動部隊による一度目の呉軍港空襲が発生し、「大和」は即座に出港して対空戦闘を行いつつ難を逃れたものの燃料不足による係留状態で身動きが出来なかった大淀などの在泊艦船に損害が出てしまう。


3月19日の空襲の後、呉に戻っていた「大和」以下の第一遊撃部隊に対し、3月26日に連合艦隊司令部は佐世保への前進待機命令を下す。

同日にアメリカ軍が慶良間列島へ上陸し、沖縄戦の前哨戦が開始される。


「大和」の佐世保回航の立案者である連合艦隊作戦参謀三上作夫中佐は、佐世保に待機させた「大和」を囮として敵機動部隊を引き付け基地航空部隊によって叩く事を企図していたが、鹿屋にいた第五航空艦隊司令長官宇垣纒中将(マリアナ、レイテの両海戦において大和の所属する第一戦隊を指揮)に「小細工が通用するはずもなく笑止千万。内海待機が適当」と評されるなど反対意見が少なくなかった。

移動を命じられた第一遊撃部隊も賛同はしてはいなかったものの、28日に在泊艦船乗組員からの見送りを受けて呉を出港し佐世保への移動を開始する。

しかし、「大和」の呉出港とほぼ同じ頃にアメリカ機動部隊が豊後水道付近に接近し、第一遊撃部隊の豊後水道通過の為対潜掃討に従事していた海防艦御蔵などが撃沈されてしまう。

この報告を受けた連合艦隊司令部は、第一遊撃部隊に徳山湾で待機の命令を出し艦隊は佐世保への回航を中止して徳山湾で待機となった。そのさなか「大和」の護衛についていた駆逐艦「」が周防灘にて機雷に触雷して同行出来なくなり、途中まで駆逐艦朝霜に曳航されるも応急修理によって自力航行が可能となったので単独で呉へ帰投した。


かくして徳山湾に集結した第一遊撃部隊(第二艦隊)の陣容は二水戦の旗艦「矢矧」、第十七駆逐隊(「磯風」、「浜風」、「雪風」)、第二一駆逐隊(「朝霜」、「」、「初霜」)、第四一駆逐隊(「涼月」、「冬月」)の9隻で、これに第二艦隊旗艦「大和」を加えた10隻が日本海軍最後の艦隊だった。一方で佐世保から呉に回航されていた軽巡「酒匂」は参加を予定されていながら直前に中止となった。


沖縄への出撃編集

4月1日、アメリカ軍が沖縄本島に上陸し、沖縄戦が始まった。


陸軍と海兵隊による大部隊の上陸作戦で沖縄攻略を開始したアメリカ軍に対し、防衛側の日本軍では硫黄島同様の持久戦を主張する沖縄の現地部隊である第32軍(司令官牛島満中将)と、総攻撃によって大打撃を与え一気に講和を目論む内地の大本営(海軍を主とし、陸軍は本土決戦に傾いていた)との間で意見がわかれており、更に沖縄を決戦と位置付けて残された全力を投入する反復攻撃の為に現地の飛行場を必要とした海軍から占領された飛行場の再確保が第32軍に要請され、現場指揮が混乱するなど(一方、陸軍は大本営名義で飛行場再確保命令は出したものの海軍の指揮下に入った部隊以外は本土決戦用に温存の方針を取りつつあった)作戦方針が統一されていなかったが、そんな状況下の4月3日に第二水雷戦隊で会議が行われ下記の3つの選択肢が検討された。


1.航空作戦、地上作戦の展開に関わらず沖縄に突入し、最後の海戦を実施する。目的地到達前に壊滅必至。

2.好機到来迄極力日本海朝鮮南部方面に避退温存す。

3.陸揚可能兵器弾薬人員を揚陸、陸上防衛兵力とし、残りを浮き砲台とす。


二水戦は第3案を「最も有利なる案」とし、第二艦隊司令長官伊藤整一中将に意見具申する。

伊藤中将以下第二艦隊司令部も賛成で、連合艦隊司令部に意見具申しようとしたが連合艦隊では第二艦隊の思いもよらない事態が進行していあた。

その事態の正体は、4月5日に「大和」に着電した伊藤中将宛の連合艦隊司令部からの命令を伝える以下の電文で明らかになる(発信時刻は連合艦隊司令部からのもの)。


1.「【電令作603号】(発信時刻13時59分)第一遊撃部隊(大和、二水戦〈矢矧及駆逐艦六隻〉ハ海上特攻隊トシテ八日黎明沖縄ニ突入ヲ目途トシ、急遽出撃準備ヲ完成スベシ。部隊行動未掃海面の対潜掃蕩を実施させよ。31戦隊の駆逐艦で九州南方海面まで対潜、対空警戒に当たらせよ。海上護衛隊長官は部下航空機で九州南方、南東海面の索敵、対潜警戒を展開せよ。」

2.「【電令作607号】(発信時刻15時)海軍部隊及び六航軍は沖縄周辺の艦船攻撃を行え。陸軍第十方面軍第三十二軍もこれに呼応し攻撃を実施す。7日黎明時豊後水道出撃。8日黎明沖縄西方海面に突入せよ。」

3.「【電令作611号】(発信時刻15時)

一 帝国海軍部隊及第六航空軍ハX日(六日以後)全力ヲ挙ゲテ沖縄周辺艦船ヲ攻撃撃滅セントス

二 陸軍第八飛行師団ハ右ニ協力攻撃ヲ実施ス 第三十二軍ハ七日ヨリ総攻撃ヲ開始 敵陸上部隊ノ掃滅ヲ企図ス

三 海上特攻隊ハH日黎明豊後水道出撃 Y日黎明時沖縄西方海面ニ突入 敵水上艦艇竝ニ輸送船団ヲ攻撃撃滅スベシ Y日ヲ八日トス」


佐世保回航が中止され、宙に浮いてしまった第二艦隊に目を付けた神重徳大佐が突如レイテ沖海戦の時と同じ様な艦隊突入作戦を立案し、作戦指導の為に九州鹿屋基地の第五航空艦隊司令部へ出張中であった草鹿龍之介参謀長の不在時に、司令長官豊田副武に直接決裁を仰ぎ「大和」の出撃が決定されてしまう。

神は決裁後に軍令部へ赴き、作戦担当の軍令部第一部長の富岡定俊少将へ話を持って行ったが、彼には強硬に反対され、次にその上司である軍令部次長小沢治三郎中将の元へ行くも「積極的なのはいいが、それはもはや作戦と呼べるのか」と再考を促させられる。

更に小沢からは「片道燃料分しか燃料供給せず」と通告されたが、連合艦隊司令部として作戦決行を主張したので「豊田長官がそうしたいという決意ならよかろう」と了解を得る事に成功する。


神大佐は、豊田長官からの決裁と小沢軍令部次長からの了解を得ると、鹿屋にいた草鹿参謀長に電話をかけ応対に出た三上中佐に「大和」の出撃が決定した事を伝える。

三上中佐から伝えられた草鹿中将は、自分の不在時に決定された作戦に憤慨し神奈川県日吉の慶応義塾大学地下壕の連合艦隊司令部にいる神と鹿屋の第五航空艦隊司令部にいる草鹿との間で激しい議論になった。

しかし神が「陛下(昭和天皇)からも『航空部隊の攻撃だけか』とご下問があったではないですか」と強調、結局4月6日に草鹿が押し切られる形で作戦参謀三上中佐と共に作戦の通達と説明を行う為に徳山湾の大和を訪れる。

大和を訪れた草鹿に対し、二水戦指揮下の駆逐隊司令や艦長たちから激しく非難の声が挙がるが、同じように納得がいかなかった伊藤に対して草鹿が「一億総特攻の魁となって頂きたい」と伊藤に言うと伊藤も「そうか、それならわかった。」と返して納得し伊藤自身から隊司令・艦長達へ「この命令は我々に死所を与えたものである。死んでこいということである。」と告げ第二艦隊は出撃の準備に着手した。

なお、この時草鹿と一緒に「大和」を訪れていた三上はほとんど成功の算がない作戦に対して連合艦隊作戦参謀としての責任を感じ、このまま「大和」に残って作戦へ同行する事を申し出たが第二艦隊先任参謀の山本祐二大佐に「我々は連合艦隊の監督が無くても立派にやってみせる。」と拒否されて第二艦隊への同行を諦めた。

また日吉の連合艦隊司令部では神も第二艦隊の参謀へ転任して「大和」への乗艦を希望していたがこちらは鹿屋出張中の草鹿の参謀長の次席である連合艦隊参謀副長であった高田利種少将に却下されていた。


その頃徳山の燃料タンクでは急遽決定された出撃の為艦隊への2,000トンの燃料の搭載が命じられていたが「人が死ににゆくのに腹一杯食わさんでどうする!」と第二艦隊の各艦艦長が抗議した結果呉鎮守府を始めとする周辺部隊の協力により徳山燃料タンクの底に溜まった重油、出撃しない艦からの移譲、護衛総隊の割り当てカットなどが行われて燃料が集められ最終的に

大和4,000トン、矢矧1,250トン、冬月900トン(650トン)、涼月900トン(400トン)、磯風599トン、浜風599トン、雪風588トン(170トン)、朝霜599トン、霞540トン、初霜500トン(300トン)

が各艦へ搭載された。

なお()内の数字は生存艦の佐世保到着時の燃料残量である。

各艦に搭載された燃料は満タンでは無かったものの巡航速度であれば呉~沖縄の間を十分に往復可能な量であった(当然だがあくまで何事も無ければという話である)。

この時、連合艦隊機関参謀の小林は現場判断で往復分の燃料が第二艦隊に搭載されている事を承知したうえで「予定分(当初の2,000トン)の燃料を搭載した。」と報告したので、連合艦隊も軍令部も第二艦隊は片道分の燃料で出撃したと思っていた様である。


一方、出撃に燃料を回す為に輸送船団の護衛艦の燃料の割り当てをカットする連絡を受けた海上護衛総隊司令部参謀の大井篤は「国をあげての戦争に、水上部隊の伝統が何だ。水上部隊の栄光が何だ。馬鹿野郎」と軍令部の海上物資輸送への理解度のなさに激怒したという(大井は後に大和の生存者の集まりでも大和を非難し生存者達を絶句させた)。


日本側はアメリカ軍の機動部隊が沖縄東方に存在することを前提に計画を立てていた。7日早朝に大隅半島を通過し、沖縄突入は8日黎明を予定し、アメリカ機動部隊出現の場合は一旦計画を中止して北上の後に基地航空兵力の特攻作戦成果を待って反転突入を企図というものだったがこの計画について第二水雷戦隊司令官としてこの出撃に参加した古村啓蔵少将は戦後「出撃時期と到着時期を固定してただ走れば、途中の壊滅は必至である。」と回想したが、航空援護の無い艦隊の前途を最初から悲観していた者もいた。

その中の1人である沖縄の第32軍司令官牛島満中将は、第32軍司令部で海上特攻実行と陸軍総攻撃を求める機密電報に接し即座にその機密電報を投げ捨てて「ご厚志は感謝するが、時期尚早と考察するので、海上特攻の出撃は取止められたし」と電報を大本営へ発信した。

米内光政海軍大臣は、神に対し「成功したら奇蹟だ」と述べるがそれに対する神の答えは「戦わずに沈められるより、戦って沈んだ方が良い。」であった。

この神の考えに対しては、作戦そのものに反対していた宇垣第五航空艦隊司令長官も「決戦ならば之もよからん。」と日記の「戦藻録」に記しており、憤慨して神と激論を交わした草鹿参謀長も「いずれその最期を覚悟しても、悔なき死所を得させ、少しでも意義ある所に。」と述べている。

上記連合艦隊参謀副長高田利種少将も神の「大和」への乗艦は却下しつつも「大和を特攻に使わないで戦争に負けたら、次の日本は作れない。」と考えていて内心では神の提案に賛成だったと明かしており「大和」に華々しい最後を飾らせたいという考えは、神だけでなく、海軍首脳の誰もが抱いていた可能性が戦後の研究により指摘されている。


そんな「大和」を取り巻く海軍首脳部の思惑など知る由も無く、第二艦隊は4月6日15時20分に徳山湾より沖縄の戦場を目指して出撃し豊後水道を南下する。

艦隊の先頭には前路掃海隊の第三十一戦隊(秋月型駆逐艦「花月」、松型駆逐艦「」、「」)が進み対潜警戒を行い、続いて警戒隊として矢矧以下二水戦。最後に大和という隊列であった。


16時10分、艦隊司令長官伊藤整一中将より全艦に訓示が発せられた。

神機将ニ動カントス。皇国ノ隆替繋リテ此ノ一挙ニ存ス。各員奮戦激闘会敵ヲ必滅シ以テ海上特攻隊ノ本領ヲ発揮セヨ


16時11分、「大和」座乗の伊藤中将より第三十一戦隊にたいして解列の指示が下る。三十一戦隊を練度未熟と見た伊藤中将の判断であった。

解列した三十一戦隊は自分達を追い越していく第二艦隊を盛大な声援と共に見送った。


アメリカ軍の対応編集

アメリカ海軍は暗号解読と偵察情報から第二艦隊出撃を察知し、艦隊への魚雷攻撃を禁止した潜水艦を哨戒の為豊後水道に配置していた。

艦隊司令長官レイモンド・スプルーアンス大将は水上艦隊による夜戦での大和撃沈を企図してモートン・デイヨー少将指揮の旧式戦艦部隊を迎撃に派遣するが、機動部隊の司令官マーク・ミッチャー中将はかつて「武蔵」撃沈を確認出来なかった事もあり、戦艦に対する航空機の優位性を証明できる最良の機会と考えていた為、三個の空母部隊を「大和」攻撃の為に集結させた。

4月7日の朝、索敵機が第二艦隊を発見した後、ミッチャー中将はスプルーアンス大将に第二艦隊をデイヨー少将と自分のどちらが攻撃するべきか問い "You take them"(貴官が やつらを やれ)という返答を得た。これは第二艦隊が西に偽装航路を取った為であり、佐世保に逃げ込まれると後々厄介な事になるので、沖縄に来ないならその前に沈めようとスプルーアンス大将が判断した為であった。「大和」が敵戦艦との砲撃戦を行う機会は最後まで訪れなかった。


豊後水道編集

4月6日夜 沖縄を目指して豊後水道を南下していた第二艦隊では砲撃訓練と「大和」を標的にした雷撃戦の訓練が行われていた。

20時20分、豊後水道に配置されていたアメリカ潜水艦が第二艦隊を発見。電文でアメリカ艦隊に通報したが暗号ではなく平文で「ヤマト」と記していたので日本側も敵潜水艦の存在を察知したが攻撃を行う前に見失ってしまった。


偽装航路を中止して沖縄本島へ編集

4月7日6時、艦隊は大隅海峡を通過し偽装航路をとって東シナ海を西に航行していた。7時過ぎに第五航空艦隊の宇垣中将の命を受けた零戦隊が艦隊上空に現れわずかな時間ではあったが護衛を行った。零戦隊が帰投したのと入れ替わるようにアメリカ軍のマーチン飛行艇が艦隊に接触、第二艦隊の位置が判明した。

零戦隊が現れる直前に駆逐艦「朝霜」が機関故障を起こして艦隊から落伍し、12時21分にアメリカ艦載機の攻撃で沈没、総員戦死した。


8時15分、敵偵察機の接触を受けた第二艦隊では「大和」の主砲射撃で追い払おうとするも失敗した為これ以上は無意味と偽装航路を中止、沖縄本島目指して南下を開始する。


坊ノ岬沖海戦編集

最後の食事編集

偵察機からの報告を受けたミッチャー中将は10時から10時半にかけて指揮下の機動部隊から約400機に及ぶ攻撃隊を2波に分けて出撃させた。

一方第二艦隊は11時35分に「大和」の対空電探が艦載機の大編隊を探知。対空戦闘用意が発令され、敵機来襲までの僅かな間に乗員に握り飯等が配られた。

12時30分頃、アメリカ軍第1波攻撃隊約200機が艦隊上空に襲来した。

第一次攻撃編集

第二艦隊はアメリカ軍攻撃隊の上空到着時には対空戦闘準備を完了していたがこの日は分厚い雲が広がっており照準を目視で合わせる日本側には非常に不利な状態だった。視界不良はアメリカ側も同じで、艦隊の位置確認や衝突回避の為にすぐには攻撃できなかった。

12時34分、第二艦隊旗艦「大和」が第一、第二主砲より三式弾を発射(発射しなかった説有り)し対空戦闘が開始された。

12時41分、アメリカ軍急降下爆撃機の爆撃で大和の後部艦橋並びに後部副砲部に爆弾が命中して火災発生。

12時45分、駆逐艦「浜風」に爆弾が命中して航行不能となり、直後に魚雷が命中して沈没。12時46分、軽巡「矢矧」に魚雷が命中して航行不能となる。同じ頃、「大和」の左舷に1本目の魚雷が命中する。アメリカ軍はレイテでの武蔵攻撃の戦訓から転覆を狙って左舷に攻撃を集中させたという説があるが現在までにそれを証明する物は見つかっていない。「大和」は魚雷命中により左舷に傾斜したものの注水によって回復し戦闘を続行した。

13時8分、駆逐艦「涼月」の前部に爆弾が直撃して大破し、艦隊から落伍する。

第二次攻撃編集

13時20分、第2次攻撃隊が艦隊上空に来襲し「大和」に集中攻撃を開始した。アメリカ軍機は機銃掃射と爆弾で左舷の対空火器の破壊と人員の殺傷を行い、続いて魚雷攻撃を行った。「大和」の左舷に次々と魚雷が命中して一気に傾斜が増し始め転覆の危機に陥りだした。

13時25分、通信機能を破壊された「大和」は駆逐艦「初霜」に通信代行を依頼し、13時33分、右舷側のボイラー室と機械室に注水する。この注水によって傾斜はなんとか回復したものの右舷の機関が使用不能となって速力は10ノットまで低下した。

この間駆逐艦「霞」が直撃弾2発を受けて航行不能、第一次空襲で航行不能になっていた軽巡「矢矧」がさらなる被弾で14時5分に沈没。二水戦司令部移乗の為「矢矧」に接近していた駆逐艦「磯風」も被弾して航行不能と艦隊の被害が加速度的に増加していた。

残った駆逐艦「初霜」、「雪風」、「冬月」は大和の周囲に展開し必死の対空射撃を続けていた。

戦艦「大和」沈没編集

14時10分頃、エセックス級空母「ヨークタウン」の艦攻隊による雷撃が致命傷となり「大和」の傾斜が急速に大きくなった。「大和」副長能村次郎大佐が応急指揮所から艦橋に上がり「大和」艦長の有賀幸作大佐に総員退去を進言、第二艦隊参謀長の森下信衛少将も同意見を言ってきたので有賀大佐は総員退去を発令する。伊藤整一中将は作戦の中止と残存駆逐艦に乗員の救助を命じ、自らは艦橋下部の長官控室に降りて行った。

有賀は「総員最上甲板」を号令機で艦内に伝達していたが既に傾斜が50度に達し電源の喪失で暗闇となった複雑な艦内を移動して脱出する事が出来ずに多数の乗員が閉じ込められたまま戦死した。

防空指揮所のすぐ傍にある方位測定室にいた山口甚之助はこの時各部署から伝声管で指揮所に入ってくる「ドアが開かないっ!!」「ドアが開きませんっ!!」という悲惨な声を証言している。

右舷三番高角砲の亀山利一は大和の煙突に多くの乗員が吸い込まれていったのを目撃した。

第一、第二主砲は左舷への傾斜でドアが開かずに総員戦死したが第三主砲は逆にドアが開く方向だったので滝本保男のように脱出して生還出来た者がいた。

高角砲と機銃は上記の亀山のように被害の少なかった右舷側の方が多く生還出来た。

14時20分に「大和」が横転を開始、艦橋の上部の者は配置を離れたらすぐそこが海だったと証言している。

14時23分、北緯30度43分、東経128度04分の地点で「大和」は完全に転覆し海中に姿を消したが、直後、主砲弾薬庫の誘爆と機関の水蒸気爆発が起きて、巨大なキノコ雲を残して水深345mの海底に沈んでいった。甲板部分、特に前甲板周辺にいた乗員が多数死亡したものの、海中へ引きずり込まれた第二艦隊参謀長森下信衛をはじめ多くの者が爆発により海面に押し上げられた。

「大和」の大爆発によって生じた高熱の破片は海面を漂う乗員達に降り注いだ。あるものは手足を切断しあるものは頭部を切り取られた。アメリカ軍機も機銃掃射を加え、駆逐艦に救助されて生還する事が出来たのは「大和」乗員の1割にも満たない276名であった。

第二艦隊の残存艦編集

伊藤中将が戦死し、二水戦司令官の古村啓蔵少将(武蔵の2代目艦長、森下、有賀とは海兵同期)は漂流中の状況で先任司令官である第四十一駆逐隊司令の吉田正義大佐は15時52分に連合艦隊司令部あてに「数次にわたり、敵艦上機大編隊の攻撃を受け、大和、矢矧、磯風沈没、浜風、涼月、霞航行不能、その他各艦多少損害あり、冬月、初霜、雪風を以って生存者を救助の後、再起を図らんとす」と発信した。

17時20分に「初霜」に救助された古村少将は作戦続行の為に暗号を起案していたが、17時50分に連合艦隊司令部から作戦中止と佐世保への帰投命令を受け、残存艦に帰投を命じる。

「霞」と「磯風」には処分命令が下され、乗員救助の後に「冬月」と「雪風」が雷撃処分した。

艦首を大破した「涼月」は単艦、後進で佐世保に向かった。すでに沈没したと思われていたので驚きをもって迎えられ、急いで入渠作業が行われたもののドック内で擱座してしまった。

海戦後の日本海軍編集

批判編集

帰投した第二艦隊の残存艦などから今作戦にたいする批判が相次いだ。

第二水雷戦隊は戦闘詳報で事前の打ち合わせもなく急遽決定した特攻作戦を厳しく批判し、「大和」の戦闘詳報では、「戦況逼迫せる場合は兎に角焦燥感にかられ、計画準備に余裕なきを常とするも、特攻兵器は別として、今後残存駆逐艦等を以てこの種の特攻作戦に成功を期せんが為には慎重に計画を進め、事前の準備を可及的綿密に行うの要あり。『思いつき』作戦は精鋭部隊(艦船)をもみすみす徒死せしむるに過ぎず」と記した。

宇垣中将は自身の日記の「戦藻録」で『嗚呼!』と嘆き『全軍の士気を昂揚せんとして反りて悲惨なる結果を招き痛憤復讐の念を抱かしむる外何等得る所無き無暴の挙と云はずとして何ぞや』と記して日本海軍上層部を批判している。

日本海軍の終焉編集

この海戦は、日本海軍の水上戦闘艦艇の壊滅と終焉を意味するものとして広く認識されている。これ以降、水上部隊による攻撃作戦は極度の燃料不足のために行われず、「伊勢」、「日向」、「榛名」は7月の呉軍港空襲にて大破着底し、世界第3位の実力を誇った大日本帝国海軍は消滅した。


『我、生存者無シ』朝霜の最後想像図傾斜復元ならず


関連タグ編集

天一号作戦 大日本帝国海軍

五十鈴:同日に沈んだ軽巡洋艦

扶桑山城サイパン島において、「大和」と同じ運用をするプランがあった

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