経歴
海軍兵学校を第45期生として卒業。同期には空母大鳳艦長の菊池朝三、戦艦武蔵2代目艦長で最後の第二水雷戦隊司令官古村啓蔵、自身の前任の戦艦大和艦長で坊ノ岬沖海戦では第二艦隊参謀長として大和に乗り込んでいた森下信衛がいる。
1941年6月18日第四駆逐隊(陽炎型駆逐艦の野分、嵐、萩風、舞風)の司令として着任しこのポストで太平洋戦争の開戦を迎える。
第四駆逐隊は開戦当初、第二艦隊に所属して南方資源地帯の攻略に従事するが後に南雲機動部隊の直衛を担当する第十戦隊に転籍してミッドウェー海戦に参加。この戦いで守るべき空母は全滅し第四駆逐隊は空母赤城の雷撃処分を担当する。有賀は自身の指揮で初めて撃った魚雷が赤城にたいするものであった事を嘆き続けた。その後は再編成された機動部隊である第三艦隊に所属して南太平洋海戦に参加。この海戦で被弾した空母翔鶴から司令長官南雲忠一中将を移乗させた。
1943年3月1日に重巡洋艦鳥海の艦長となるも翌年4月21日、デング熱を発症して内地に帰還、水雷学校の教頭に転属てなる。
ずっと実戦畑で海上勤務を続けていた有賀にとって机上の学問を教える教頭の職は本意ではなかったらしい。
1944年12月10日、戦艦大和に5代目の艦長として着任する。大和の艦長を命じられたのが非常に嬉しかったらしく海兵団にいた長男に暗号名などの秘匿も無しに「戦艦大和艦長 有賀幸作」と堂々と艦名を記入した手紙を送っている。手紙には『大和艦長拝命す。死に場所を得て男子の本懐これに勝るものなし』と書かれており、これを見た長男は父が死を覚悟した事を悟ったという。
1945年4月、菊水作戦が発動され戦艦大和の出撃が決定されるが、有賀は士官候補生と傷病者を全員大和から退艦させた。その後艦内での無礼講の宴会を許可し、有賀自身も青年士官の宴会の場に現れたが、その時酩酊した士官に「木魚が来た!!」と頭をペチペチ叩かれても高笑いしてされるままに任せていたという。
そして1945年4月7日14時23分。戦艦大和は300機を超える敵大編隊に集中攻撃を受けて北緯30度43分、東経128度04分の地点で沈没。有賀は3000人以上の乗員と共に大和と運命を共にした。
戦死後中将に昇進。
最後のレストラン
現代の横須賀沖に大和と一緒にタイムスリップした。同じ名字の有賀千恵と出会う。