概要
海軍入隊まで
南雲忠一は1887年に山形県米沢市で6人姉弟の末っ子として生まれた。
海軍入隊後
1908年に海軍兵学校を卒業し、以後多くの艦に乗り組む。軍令部で勤務することもあった。
1941年第一航空艦隊司令長官に任官され以後、その主力の一航戦、二航戦、五航戦を指揮した。彼の率いる部隊は南雲機動部隊の名で知られる。
真珠湾攻撃やインド洋作戦での大戦果で名を挙げるが、ミッドウェー海戦で麾下の四空母を失う大敗北を喫する。
しかし、雪辱のため引き続き機動部隊を指揮することを認められ、南太平洋海戦ではアメリカ太平洋艦隊の正規空母をすべて非稼働状態に追い込んだ。
1944年にサイパン島に中部太平洋方面艦隊司令長官として着任する。
同年6月から始まったサイパン島の戦いでは陣頭指揮を執った。
最期
1944年7月5日南雲は昭和天皇からのお言葉の返事でサイパン島放棄の旨を伝えた。
翌7月6日南雲は他2人の中将、少将と共に皇居を向いて切腹した。
副官がピストルで介錯し生涯を終えた。膝の上に額をのせて亡くなったという。
享年57歳であった。
評価
ミッドウェー海戦の敗将としてや、真珠湾攻撃で港湾設備や貯油施設を目標とした第2次攻撃を行わなかったことなどにより、戦史家、研究家の評価は低い。参謀長だった草鹿龍之介も「冴えない長官だった」と言っている(回想では良い上司の一人であった、部隊運用の手腕など学ぶべき所が多くあったとも記述している)。連合艦隊司令長官山本五十六とも南雲が艦隊派であった事もあり激しく対立している。
南雲は本来水雷専門であり、航空に関しては素人同然だった(ただし、航空戦教範起草委員会委員になったこともある)。そんな南雲が山本の連合艦隊指揮下、機動部隊司令長官になったのは、年功序列に基づく硬直した人事制度によるものである。
司令官として参謀の意見を聞くことも多かった。真珠湾の第2次攻撃中止を決めたのは、一撃離脱を主張した草鹿参謀長の意見が影響しているとされるが、そもそも出撃時から真珠湾のインフラを破壊せよという命令は出ておらず、既に作戦目的を達成しており第2次攻撃を出した場合の攻撃隊、艦隊側双方のリスクが高い状態でもあった。
また、ミッドウェー海戦で幕僚たちと相談の上、敵艦隊発見の際に対陸用爆弾のままの攻撃隊をすぐ向かわせず、攻撃のために準備を優先させたことも敗因の一つである。しかし、偵察機からの敵艦隊発見の報の位置情報が実際より遠いなど、当時の南雲や参謀が得られた情報は正しくなかった。報告された位置の米空母から艦隊に到達できるのは護衛なしの攻撃隊くらいであり、時間的余裕もあると判断され兵装転換が決定された。何より既にミッドウェー島空襲に参加した攻撃隊が帰ってきたタイミングであり、仮にすぐに出撃すれば燃料の切れかかった彼らを着艦させられず見捨てる事になるため、その決定自体に大きな(しかも確実な)リスクがあったのである。
南雲の判断に対する批判のうちのいくつかは結局後知恵であり、実際の敵の位置や状態を知っている後世の我々には何とでも言えるのである。仮に上記の批判通りに真珠湾で第2次攻撃を出して攻撃隊に大損害を出す、または母艦が潜水艦に襲われたり、ミッドウェーの敵艦隊の位置が報告通り遠かったのにすぐに陸用爆弾の攻撃隊を出して第1次攻撃隊を見捨てたら、それを理由に愚か者と叩かれていただろうことは想像に難くない。
軍令部第二課長時代に艦隊派として、軍令部の権限を強化する法案を認めない軍務局第一課長井上成美大佐を「殺すぞ」と何度も脅した事は有名だが、それに対してあまり論じられないが、南雲は日本とアメリカの戦力を仔細に比較し、日米開戦に反対の立場だった。アメリカに立ち向かえなくなるという理由で軍縮に反対する立場であるが故に、軍縮が成った以上は戦争しても勝てないとしているからであり、艦隊派イコール好戦派とは限らないのである。
また開戦前、つまり水雷戦隊の指揮官時代には勇猛果敢な提督として知られており、日本を代表する水雷戦のエキスパートとして海外にも名が通っていた。
艦艇の扱いに長けており、ミッドウェー海戦時には鈍重で艦橋が左舷によっていて操艦しづらい赤城の操艦を艦長の青木泰次郎大佐に「操艦貰うぞ」と告げて自ら命じ、魚雷7本を悠々避け、艦橋要員を驚かせている。
部下の教育にも熱心で、多くの部下から「厳しくも部下思いの指揮官」として信頼されていたようである。
真珠湾攻撃の折の波が高い為に重い魚雷を搭載する艦上攻撃機発艦は困難で、その攻撃参加は見送る方針に対し搭乗員が出撃を懇願したのを聞き届けた事も部下への情の強さの面が多い。だが真珠湾攻撃成功の一つの要因となる決断だった。
これらもあってか航空機搭乗員達からの人気は後任の小沢提督よりあったという。
人事制度の弊害を被って敗北の批判にさらされた末、最後は陸戦指揮という畑違いの任務でサイパンに死に場所を与えられ、その任務に殉じた南雲を批判するのは決して正しいことではないだろう。