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木村昌福

きむらまさとみ

「木村昌福」とは、日本海軍の軍人、提督。 (タイトルイラスト向かって左側の人物)
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プロフィール

性別男性
生年月日1891年12月6日
死没1960年2月14日
出生地静岡県
所属大日本帝国海軍


概要

木村昌福は、大日本帝国海軍の軍人。最終階級は海軍中将
太平洋戦争における日本海軍屈指の艦隊指揮官として知られており、海上戦闘で数々の武勲を立てた人物である。海軍兵学校での成績が低かったにもかかわらず、太平洋戦争では的確な指揮で多くの作戦を成功に導き、実戦派の指揮官として味方のみならず米国からも高い評価を得た。
トレードマークは立派に生やしたカイゼル髭。あだ名は名前の音読みで「ショーフク」さん。

兵学校卒業時の成績がものを言う海軍において開戦前には目立つ存在ではなく、開戦時はまだ一艦長(乗艦は重巡洋艦鈴谷)に過ぎなかった。これで南方作戦やミッドウェー海戦に参加している。この鈴谷艦長のとき、損傷を偽って三隈救援に向かっている。

将官に昇進した後、第三水雷戦隊の司令官に任じられ、ニューギニアのラエへの輸送作戦を任されたが、連合軍空軍の猛攻に遭い、輸送船8隻は全部、部隊の8隻の駆逐艦も半数が沈められる惨敗を喫した(ビスマルク海海戦)。この際木村自身も重傷を負った。

療養のあと、北方の第一水雷戦隊の司令官に転じた。

そこであげたのが、木村の特に有名な業績である、奇跡の作戦といわれた「キスカ島撤退作戦」である。この指揮では、味方に死傷者を出すことなく5200名余の日本将兵の撤退を完了させている。
このときに残した、帰ろう、帰ればまた来られるからの言葉は非常に有名。
この作戦後、木村はレイテ沖海戦に参加した。
その後、レイテ周辺の制海権は失われ、制空権もほとんど米軍に取られているという過酷な状況にもかかわらず、レイテ島への輸送作戦を強行する多号作戦に従事するが、マニラ湾への激しい空襲があったことにより、無事な駆逐艦を連れて退避する。
その後、ミンドロ島の敵泊地に対して艦隊を突入を敢行するという礼号作戦を指揮することとなった。この作戦では、重巡足柄」、軽巡大淀」、駆逐艦」以下駆逐艦6隻の艦隊の指揮をとり、駆逐艦清霜を失うも、作戦は成功した。
戦後は、トレードマークだったカイゼル髭を剃り落とし、山口県で彼を慕う部下と共に製塩会社を興し、1960年2月14日逝去した。享年68歳であった。

なお、多号作戦・礼号作戦でを乗艦・水雷戦隊旗艦としたことについて、その後受けた取材で「聯合艦隊司令部の能力もあった大淀もいながら、なぜ霞を旗艦にしたのですか?」の問いに、「だって君、僕は駆逐艦乗りだよ」と返答したことから、今「艦隊これくしょん」というゲームの関係から……これ以上いけない。

職歴

艦隊これくしょんに実装艦が存在するものを中心に列挙する。
【中佐】第二一駆逐隊司令 (初春・子日・若葉・初霜)
【大佐】第八駆逐隊司令 (天霧ほか)
    神通艦長
    鈴谷艦長 ※開戦時。同時期同艦の水雷長が若葉最後の艦長
【少将】第三水雷戦隊司令官 ビスマルク海海戦時。負傷したため療養のため離職
    第一水雷戦隊司令官 キスカ島撤退作戦以降解散まで、阿武隈に座乗
    第二水雷戦隊司令官 引き続き等に座乗 礼号作戦までを指揮
    以降、終戦まで陸上勤務(防府通信学校長等)
戦後最後の昇級で【中将】に昇進。

関連イラスト

キスカ撤収作戦
キスカ島撤退作戦


撃っちゃあ いかんぞぉっ!



関連タグ

軍人 キスカ 海軍 提督
帰ろう、帰ればまた来られるから

外部リンク

木村昌福 - Wikipedia

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