史実
名前の由来は樺太を流れる鈴谷川(すすやがわ)から。
1933年12月11日、横須賀海軍工廠にて起工。
1934年11月20日には昭和天皇臨席の元で進水し、1937年10月31日竣工した。
第四艦隊事件により最上型の船体強度に問題があることが判明したため設計図が改正され、船体形状に違いができ、4番艦「熊野」と共に鈴谷型重巡洋艦と分類されることもある。
ボイラーが「最上」「三隈」は重油専焼罐大型8基小型2基の計10基から、重油専焼罐大型8基に変更されている。そのため、第3砲塔と艦橋構造物との間の大型吸気トランクがなく、一番煙突の太さもボイラー減少の分だけ径が細くなっている。
1941年の太平洋戦争勃発後は、マレー上陸作戦、バタビア沖海戦、第二次ソロモン海戦、マリアナ沖海戦等に参加。
ミッドウェー海戦に於いて第七戦隊旗艦「熊野」(司令官・栗田健男少将)は「我に続け」の信号旗を掲げ、旗艦の命令伝達ミスで衝突損傷した最上と三隈をその場に残し鈴谷と共に西進離脱した。しかし鈴谷の艦長・木村昌福大佐は「我機関故障」と熊野に伝達し意図的に速度を落とし、その後独断で行動不能になった三隈生存者の救助に向かった。生存者の救助後、鈴谷より魚雷を発射し三隈を雷撃処分した。
1944年には第七戦隊に所属してレイテ沖海戦に参加。24日にシブヤン海海戦に参加。
同年10月25日のサマール沖海戦では、栗田艦隊巡洋艦部隊と共に米空母部隊を追撃する。その際に米軍機10機に襲撃され、艦後部への至近弾で燃料タンクに浸水。左推進器に異常が発生し、23ノット(信号では24ノット)以上を出すと艦が震動する状態となってしまう。
この直前に第七戦隊旗艦「熊野」も被雷していた為、司令官・白石萬隆少将は「熊野」から「鈴谷」に移乗し、米空母部隊追跡は中止となった。
米空母部隊追跡中止後、米軍機約30機の攻撃を受け、至近弾により右舷魚雷発射管付近に小火災が発生。それによって一番発射管の魚雷が誘爆し致命傷を負う。この爆発は近くにいた「羽黒」、「利根」、「矢矧」にも目撃された。
続いて左舷魚雷発射管と高角砲弾も誘爆し、鈴谷に乗艦していた白石司令官はこれ以上は危険として指揮を利根へ移した。
そして鈴谷の乗員の救助作業中も敵機の空襲を受け、白石司令官は 「雪風」と「沖波」に航行不能になった「鈴谷」の護衛を命令し、司令官の乗る「利根」自体は自艦の短艇を「雪風」と「沖波」に託してその場を去った。
大破した「鈴谷」は1944年10月24日13時22分に沈没。戦死90名、行方不明564名、戦傷69名。412名が「沖波」に救助された。
12月20日除籍。
余談
利根型の次級の伊吹型重巡洋艦は、急速建造するために鈴谷型の船体線図を流用されて設計された。そのため、一般的に伊吹型よりも改鈴谷型重巡洋艦と呼称されることの方が多い。
さらに余談
海上自衛隊の護衛艦は自然現象や地名から命名しており、同じくそれらから命名していた旧日本軍の艦艇と名前が被ることが珍しくない。
実際に同型艦である1番艦「最上」、2番艦「三隈」、4番艦「熊野」と由来を同じとする、いすず型護衛艦2番艦「もがみ」、ちくご型護衛艦3番艦「みくま」、同10番艦「くまの」が就役していた(現在すべて退役済み)。また、「もがみ」と「くまの」については、更にその後もがみ型護衛艦1・2番艦として再度その名前が用いられている。
鈴谷も河川の名前を由来とした命名であるが、前述したとおり鈴谷川とは現在はロシア領の樺太の河川…すなわち国外の地名である。また、町野川水系鈴屋川など同音の河川は現在の日本国内にもあるにはあるが、総じて規模が小さいため護衛艦の命名の由来とするには不足感が否めない。そのため、今後護衛艦に「すずや」という名前が受け継がれる可能性はほぼない。そんな名前付けたら下手したら国際問題である。