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最上型重巡洋艦

もがみがたじゅうじゅんようかん

日本海軍の建造した8インチ砲を持つ『二等巡洋艦』・『乙型巡洋艦』(軽巡洋艦)。 あくまで日本海軍による自称であり、実際には重巡洋艦に分類される。
目次 [非表示]

概要

1922年2月6日のワシントン海軍軍縮会議戦艦航空母艦の保有トン数が制限されたため、各国は規制にかからない巡洋艦以下の補助艦艇の新造を進め、軍備増強を図りたい日本海軍高雄型重巡洋艦を建造した。

1930年4月22日の第一次ロンドン海軍軍縮会議重巡洋艦以下の補助艦艇の保有トン数も制限されることとなり、日本海軍は旧式化した軽巡洋艦4隻(天龍龍田球磨多摩)を代替する軽巡洋艦として利根型と共に最上型を建造することになった。艦名が軽巡洋艦と同じ河川名前に由来してるのはそのためである。

ただしこれは偽装で、ロンドン海軍軍縮条約失効時には15.5cm三連装砲塔を20.3cm連装砲塔へと換装して重巡洋艦にできるよう予め設計されていた。そのため、前線では無線符丁で重巡を「甲巡」・軽巡を「乙巡」と呼んでおり、最上型・利根型ともに甲巡として扱われていた(書類上は終戦時まで軽巡洋艦)。


以上のような経緯から基準排水量8,500トンと重巡洋艦としては少し小柄な艦として、1931年の「第1次補充計画」にて建造開始。カテゴリーは軽巡ながら、スペックは重巡のそれが求められた。当時の重巡の平均排水量約10,000トンより1,500トンも少ないにもかかわらず、舷側装甲は高雄型より厚い最大140mm、主砲は三連装5基15門、速力37ノットと既存の重巡を上回る。また、15.5cm三連装砲塔は20.3cm連装砲塔よりも重かった。

この要求に応えるため、電気溶接の採用、艦橋の小型化、艦橋、一部軽合金(アルミニウム合金)を使用、構造部材に徹底的に穴を開けるなど、船体には戦闘艦艇に有るまじき軽量化が施された。夕張型から続く「軽量船体に重武装」の欠点が理解されていなかった。

1931年に一番艦「最上」と二番艦「三隈」が相次いで起工したが、1934年に友鶴事件第四艦隊事件が発生。最上には砲塔が回らない、船体が歪み亀裂が入るなど無理な軽量化と未熟な溶接技術による強度不足が露呈した。

最上型各艦は溶接からリベット止めへの変更、構造部材の補強、バルジを付けて重心を下げるなど、徹底的な補強工事が施されることとなり、結局、排水量11,200トンと高雄型や妙高型と変わらない規模になってしまった。

ただし、初めてハンモックではなく三段式鉄製ベッドが全面採用されるなど、居住性に配慮がなされた。


また、それを受けて設計段階だった3番艦「鈴谷」と4番艦「熊野」は船体設計の線図を一部改めた上で工事が開始された。 そのため起工済みだった「最上」、「三隈」とは船体形状に違いが生じ、後期2艦は鈴谷型と分類されることもあった。

前期2艦のボイラーは重油専焼罐大型8基小型2基の計10基であったが、鈴谷型では重油専焼罐大型8基に変更されている。このため前期2艦には第3砲塔と艦橋構造物の間に大型の吸気トランクが設けられたが、鈴谷型にはそれがない。一番煙突も鈴谷型ではボイラー減少の分だけ径が細くなっているといった違いが生まれた。

工事が完了し最上型4艦が艦隊にそろったのは計画より2年遅い1938年になってからだった。


なんだか似たような駆逐艦が居たな…


1936年にロンドン条約が失効したため、最上型と利根型の主砲塔を20.3cm連装砲塔に換装する工事が1939年から1940年にかけて行われた。換装してみると今度は砲身が長くなったためにそれまでの砲塔配置では各砲塔の間隔が狭すぎ、3番砲塔が2番砲塔と艦橋にはさまれる形となり、射角が非常に小さくなってしまう問題が残った。

15.5cm三連装砲の方が単位時間あたりの投射砲弾重量で20.3cm連装砲より勝っており、用兵側の評判が極めて良かったといったという、本末転倒な話もあった。

換装されて余った15.5cm三連装砲の一部は大和型戦艦の副砲および大淀型軽巡洋艦の主砲として再利用され、更には砲台として陸上に設置された。


艦歴

最上型4隻は第七戦隊を形成し、太平洋戦争に参加。

1942年のバタビア沖海戦で米重巡洋艦「ヒューストン」や豪軽巡洋艦「パース」を撃沈、セイロン沖海戦では通商破壊作戦にあたった。

ミッドウェー海戦での退避中に最上と三隈が衝突して最上は艦首を失う大破。その後の空襲で三隈は沈没し、日本重巡洋艦初の喪失となった。

最上は損傷修理の際に後部砲塔を撤去して飛行甲板を延長、水偵11機を搭載可能な航空巡洋艦となった。

その後は様々な戦闘に参加したが、最上はスリガオ海峡海戦から退避中、鈴谷はサマール沖海戦で沈んだ。 熊野はサマール沖海戦で損傷して本土回航中、サンタクルーズ湾において空襲を受け沈没。

1944年11月25日をもって最上型は全て戦没した。


余談

鈴谷の建造計画時、最上と三隈の2艦を防空巡洋艦へ改装する計画もあった。

改装の内容については断片的な情報しか無く、試案の図面すら残されていないが、福井静夫技術科士官の記述によれば主砲塔を一部又は全て撤去し、12.7cm連装高角砲を主とした装備案が検討されたという。 それ以外にも友鶴事件の影響で鈴谷以降を改設計する際、鈴谷と熊野を防空巡洋艦に改装する計画や、最上型全てを防空巡洋艦へ改装する計画があったとされる。


また、最上型の「重巡並みの船体の軽巡」というコンセプトに米英は対抗意識を持ったらしく、ブルックリン級軽巡(米)、タウン級軽巡(英)を建造。特にブルックリン級は後のアメリカの軽巡洋艦のスタンダードとなった。またこの面々は主砲換装を想定していないので、最後まで15.2cm三連装砲塔装備だった。


No艦名工廠起工進水竣工戦没
最上呉海軍工廠1931/10/271934/03/141935/07/281944/10/25
三隈三菱造船(長崎)1931/12/241934/05/311935/08/291942/06/05
鈴谷横須賀海軍工廠1933/12/111934/11/201937/10/311944/10/25
熊野川崎重工(神戸)1934/04/051936/10/151937/10/311944/11/25

現代

戦後、鈴谷のみは命名元が現在ロシア領の「鈴谷川」なので受け継がれなかったが、それ以外は海上自衛隊護衛艦名に2度ずつ受け継がれた。海自において「みくま」「くまの」は、阿賀野型軽巡洋艦能代」を初代とする「のしろ」と2代続いて同型艦になっているため、ここでは「のしろ」も併記する。


いすず型護衛艦

  • もがみ」(DE-212/除籍済み) 3代目。

ちくご型護衛艦

  • みくま」(DE-217/除籍済み) 2代目。
  • くまの」(DE-224/除籍済み) 2代目。
  • (参考)「のしろ」(DE-225/除籍済み) 2代目。

もがみ型護衛艦 - これまでの対潜・対空・対水上戦機能を持った護衛艦(DD)に、機雷戦機能を加えた最新鋭多目的護衛艦(FFM)

  • 「もがみ」 - 2021年3月3日に1番艦(FFM-1)として進水。4代目。
  • 「くまの」 - 2020年11月19日に2番艦(FFM-2)として進水。3代目。
  • 「みくま」 - 2021年12月10日に4番艦(FFM-4)として進水。3代目。
  • (参考)「のしろ」 - 2021年6月22日に3番艦(FFM-3)として進水。3代目。

関連項目

日本海軍 重巡洋艦 最上(重巡洋艦) 三隈(重巡洋艦) 鈴谷(重巡洋艦) 熊野(重巡洋艦)

ヘリコプター搭載護衛艦 - 戦後の海上自衛隊の航空機搭載護衛艦の種別。

宗谷(船) - 日本の船として初めてヘリコプターを搭載した巡視船(元特務艦)。上述のヘリコプター搭載護衛艦も含めた戦後日本の航空機搭載艦船の祖である。

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