概要
大日本帝国海軍の重巡洋艦の艦型の一つ。同型艦は4隻。二番艦の那智が妙高より8ヵ月早く竣工したため、那智型とも。
妙高型重巡洋艦はワシントン海軍軍縮条約の制限に基づき建造された10,000トン級重巡洋艦であり、青葉型重巡洋艦の発展型といえる艦型であった。設計の主たる物は平賀譲造船官の手による。
当初は八八艦隊計画案における20cm砲10門7200トン巡洋艦として計画されていた。ところがワシントン条約が締結されるにともない、基準排水量制限10,000トン内で最大の攻撃力と防御力を併せ持つ有力な艦が要望され、計画は変更された。軍令部案では20cm砲8門・61センチ魚雷八門以上で35.5ノットの要求であった。
大正12年(1923年)3月の艤装案では主砲連装5基、61cm魚雷連装4基の方針で作図されており、最終的に5月16日の会議で「重量軽減と居住区面積確保の為に要求範囲内の最低数で前級・青葉型の2/3である連装魚雷発射管4基を搭載する」案に決定し、補充艦艇製造費で大正13~14年度に4隻が建造される事となった。
ところが軍令部は平賀が欧州視察に赴いた不在を狙って藤本喜久雄造船官に妙高型の改設計を命じ、本型に当初予定されていた連装ではなく3連装魚雷発射管+予備魚雷が装備されることとなった。そして本型は「クラスA(大巡、甲巡・軍縮条約において規定された巡洋艦のうち8インチ砲を搭載するもの)妙高型巡洋艦」として完成した。
軍令部の強い要望(2艦隊旗艦として駆逐艦と共に突撃させる為には雷装は不可欠との想定)を受けて藤本により雷装が増強したものの、魚雷の強度上の問題から、魚雷発射管は艦内・中甲板に61cm三連装魚雷発射管を固定装備で片舷2基ずつ計4基とされた。これにより居住区画が不足するなど、設計は錯綜した。完成した本型は波形船型による船殻重量の軽減などで重兵装の設計を図ったもののこれに失敗、更に艦橋構造は不足した居住区を増設したために青葉型よりも大型化した。雷装の追加で200トン、追加の兵員室など設計外重量の追加で900トン増加など、これら要因により予定の排水量より1割弱(980トン)重くなった。結果、条約制限を超過してしまった。
その後昭和7年(1932年)から昭和11年(1936年)の第一次、13年からの第二次改装により、主砲を正八インチ砲へと改正(砲身の内筒を203mmのものに交換)、主砲弾の重量弾化(110kgから125kg)、砲弾の給弾法を押し上げ式からつるべ式に改正、浮力確保のため大型のバルジを追加、「八九式 12.7cm(40口径)高角砲」を連装砲架で4基への改正、25mm機銃の増備、魚雷発射管を次発装填機付き九二式四連装魚雷発射管への更新、カタパルトの増設・搭載水偵の増載と重量増加に伴う水偵格納庫の撤去、また、機関関係ではボイラーが一部高温缶に取り替えられかつ巡行時に外舷側2軸推進であったものを4軸全てを推進する形式に変えた事により250トンの燃料減載にもかかわらず航続距離は14ノット/7,000海里から14ノット/7,500海里に延伸した。ただし船体幅が増加したために速度は35ノットから33.3ノット程度へと低下した。
全艦がレイテ沖海戦を生き延びるほど長く戦い抜いた武勲艦であったが、その後の戦闘で相次いで戦没、終戦まで生き延びたのは妙高のみ。(その後英軍によって接収されたが昭和21年(1946年)7月8日にマラッカ海峡にて海没処分。)
本級の魚雷兵装について
通説では、「平賀譲が魚雷全廃を主張したのを平賀氏が外遊中に軍令部が後任の藤本氏に指示してが復活させた」となっている。
だが、東京大学に現存している平賀氏自身による一次資料によると
・大正12年3月の時点で連装主砲5基、連装魚雷発射管4基で艤装をシミュレートしている
・大正12年5月16日の議事録で「軍令部は魚雷発射管12門を要求したが、軽量化と居住性向上の為に連装4基に削減する設計に決定した」と書いている
・大正12年10月20日完成の艤装図では「魚雷12門を搭載したらどうなるか」と言うシミュレートが破線で描かれている。
この経緯は東京大学公開の「平賀譲デジタルアーカイブ」の「壱万噸巡洋艦ニ就テ 平賀造船少将 大正12年5月16日技術会議説明」で明記されている
平賀が計画主任を解任されイギリス行きが決まったのが大正12年10月1日、出発したのが11月22日なので、出発前に「現況設計で魚雷発射管を12門に増設したシミュレート」自体はやっている。
この流れを見る限り、平賀は居住性向上の為に魚雷兵装の簡略化は主張しても、公的に魚雷全廃を主張した形跡は見られない。
ただ、第二次世界大戦終結直後に艦政本部の資料「海軍造船技術概要」を纏めた元海軍技術少佐の福井静雄氏は「平賀譲魚雷全廃主張→軍令部による外遊中の組み込み」を加筆している。
平賀氏自身の一次資料が東京大学から公開されるまで、この説が長らく定説とされてきた。
平賀氏自筆の一次資料を重視する研究家は「大正12年5月16日の会議での魚雷削減が誇張された」と主張し、福井による資料編纂を重視する研究家は「5月16日の会議後に魚雷全廃を提案した可能性も有るのでは?」と主張している。
無論、艤装案を考えている大正12年3月ごろの時点では、様々な兵装の組み合わせをシミュレートしている筈であり、その中に「若し魚雷を全廃したのなら?」と言うものは当然あったであろう。
断言出来るのは、「大正12年5月16日の技術会議において平賀氏主導で魚雷発射管8門搭載で艤装案が決定したにもかかわらず、完成時には12門が搭載されていた」と言う事である。
それ以上の考察は福井氏の加筆の根拠が特定されない限り、「こういう話も海軍史を纏めた元技術士官が主張している」としか言いようがない。
No | 艦名 | 造船所 | 起工 | 進水 | 竣工 | 戦没 |
一番艦 | 妙高 | 横須賀 | 1924/10/25 | 1927/04/16 | 1929/07/31 | 1946/07/08(海没処分) |
二番艦 | 那智 | 呉 | 1924/11/26 | 1927/06/15 | 1928/11/26 | 1944/11/05 |
三番艦 | 足柄 | 神戸川崎 | 1925/04/11 | 1928/04/22 | 1929/08/20 | 1945/06/08 |
四番艦 | 羽黒 | 長崎 | 1925/03/16 | 1928/03/24 | 1929/04/25 | 1945/05/16 |