艦隊これくしょんのものについてはアドミラル・ヒッパー級へ。
概要
ドイツ海軍は第一次世界大戦の敗戦によって大型艦の新造保有を禁止されていたが、将来戦うおそれのある英仏の艦艇に対抗できうる重巡洋艦の建造は、密かに軍備増強を図り始めた1930年代初頭からの悲願であった。そこで1934年になって3つの条件を提示しその要件を満たす重巡洋艦の設計案を作成することにした。
1935年のベルサイユ条約破棄により建造計画は本格化し、同年夏にネームシップである「アドミラル・ヒッパー」と2番艦「ブリュッヒャー」の建造が開始された。サイズや砲塔数こそ違うものの比較的小さな艦橋や1本にまとめられた集合煙突の配置などはシャルンホルスト級巡洋戦艦に酷似している。他国の条約型重巡に比べると、条約に縛られなかった当クラスは基準排水量が1万トンを越える大型のものであったが、主砲砲門数は8門と平均的なものであった。
全部で5隻の建造が計画され、3番艦「プリンツ・オイゲン」以降は船体長を若干長くするなどの改良が加えられている。しかし5番艦「リュッツォウ」は建造途中の状態でソ連に物資の対価として譲渡され、4番艦「ザイドリッツ」は第二次世界大戦勃発により工事中止となり、最終的には 空母ヴェーザーへ改装されることになったが完成せずに終戦を迎えている。
重巡洋艦としては他国の同等の艦に比肩する艦であったが、第二次世界大戦でドイツ海軍が必要とした対地支援及び通商破壊には向いていなかった。対地支援においては、有力ではあったが代償が大きく、1940年の北欧侵攻時にドローバックにおいて「ブリュッヒャー」が撃沈され、1944年にはプリンツ・オイゲンが衝突事故を起こしている。通商破壊戦においては、「シャルンホルスト級巡洋戦艦」や「ドイッチュラント級装甲艦」に随伴可能な航続力を持たず、機関も信頼にかけていることから、不充分な戦果に留まった。
竣工した3隻は第二次大戦では通商破壊作戦やノルウェー攻略などに投入され、「ヒッパー」と「ブリュッヒャー」は戦没したが、「プリンツ・オイゲン」は終戦まで生き残り最期はビキニ環礁での原爆実験標的艦として使用され生涯を閉じた。
ソ連に渡ったリュッツオウは除籍までにペトロパヴロフスク→タリン→ドニエプルと名を変え、最後まで未完成だったもののレニングラード攻防戦に参加、ドイツ軍との砲撃戦により沈没。戦後引き揚げられ練習艦や浮き兵舎として使用される。1958年に解体。
No | 艦名 | 工廠 | 起工 | 進水 | 竣工 | 戦没 |
一番艦 | アドミラル・ヒッパー | ブローム・ウント・フォス | 1935/07/06 | 1937/02/06 | 1939/04/29 | 1952(解体) |
二番艦 | ブリュッヒャー | ドイチェヴェルケ | 1935/08/15 | 1937/06/08 | 1939/09/20 | 1940/04/09 |
三番艦 | プリンツ・オイゲン | クルップ・ゲルマーニア | 1936/04/23 | 1938/08/22 | 1940/08/01 | 1946/12(座礁) |
四番艦 | ザイドリッツ→ヴェーザー | デシマーク・ブレーメン | 1936/12/29 | 1939/01/19 | - | 1945/4/10(自沈)→1950年代に解体 |
五番艦 | リュッツォウ→ペトロパヴロフスク→タリン→ドニエプル | デシマーク・ブレーメン→オルジョニキーゼ | 1937/02/08 | 1939/01/07 | - | 1958/09(解体) |
World of Warships参戦
一番艦アドミラルヒッパーが、ドイツTier8にAdmiral Hipperとして参戦。同格の巡洋戦艦、天城の砲塔装甲を貫通する、巡洋艦離れした強力な徹甲弾を装備している。なお、日本の同格巡洋艦Mogamiの存在感が強く、相対的に影は薄くなっている。強力な水中聴音装置は、史実通りである。
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