ブリュッヒャーとは
- プロイセン王国の軍人。
- ドイツ海軍のコルベット。
- ドイツ帝国の装甲巡洋艦。
- ドイツ海軍の重巡洋艦
- 擬人化した戦艦少女の登場キャラ(布吕歇尔)。あだ名は呂布。固有スキルはクリティカルヒット率の上昇。こちらも参照。
- 擬人化したアビス・ホライズンの登場キャラ(ブリュッヒャー(アビス・ホライズン))。
軍人
ゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヒャー(1742年12月16日〜1819年9月12日)
(画像左)
スウェーデン領のロストクに生まれ、スウェーデン軍に入り、ポメラニアの戦役でプロイセン軍の捕虜になるも、それを機にプロイセン軍に入る。プロイセン軍総司令官として戦ったナポレオン戦争での活躍が有名。
軍事的才能には疑問符がつくが、大将としての統率力に優れ、シャルンホルスト、グナイゼナウ達優秀なブレーンの補佐のもとプロイセンを勝利に導いた。前進元帥のあだ名があった。
他国軍との協調性もあり、ワーテルロー戦役で英軍と別れたところをナポレオン本隊に襲われ破れたリニーの戦いで英軍の救援を受けられなかった事に激怒した参謀長のグナイゼナウが英軍救援に乗り気でないどころか後退すら考えたのに対し、プロイセン軍を英軍救援に向かわせるように命じ、ワーテルローの戦いでのナポレオンに対する決定的な勝利に貢献した。ナポレオンがリニーでプロイセン軍をまず本隊で撃破したのも、英軍のウェリントン公爵アーサー・ウェルズリーへの過小評価と共に、プロイセン軍を攻撃しても英軍は救援には来ないかもしれないが、逆の場合には必ずプロイセン軍が駆けつけると読んでいた為とも言われる。
ブリュッヒャーか、夜か、 死か:ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリー
上記の台詞はワーテルローの戦いで敗北を覚悟したウェルズリー公が言ったとされる台詞である。結果としてプロイセン軍は到着し戦いは勝利に終わった。
また彼の指揮下のプロイセン軍は敗れながらも全面崩壊せず、直ぐに態勢を立て直して進撃する打たれ強さを発揮し諸国民戦争、フランス戦役、ワーテルロー戦役でナポレオンを苦しめた。
コルベット
後に海軍大臣となるアルフレート・フォン・ティルピッツが艦長を務めた事もある。
装甲巡洋艦
ブリュッヒャー級装甲巡洋艦。
ドイツ海軍最後の装甲巡洋艦。同型艦無し。
主要データ
- 常備排水量:15,842t。
- 満載排水量:17,300t。
- 全長:161.9m。
- 全幅:24.5m。
- 武装:
- 21cm連装砲塔6基。
- 15cm単装砲8基。
- 8.8cm単装砲16基。
- 45cm単装魚雷発射管4基。
- 装甲:水線180mm。甲板70mm。主砲前盾180mm。主砲天蓋80mm。司令塔250mm。
- 最大速度:25.4ノット。
- 乗組員:853名。
艦歴
- 1907年2月21日、キールにて起工。
- 1908年4月11日、進水。
- 1909年10月1日、竣工。
- 1910年3月24日、就役。
- 1910年4月27日、艦隊に編入され、偵察部隊旗艦となる。
- 1914年8月、巡洋戦艦からなる第一偵察戦隊に編入。11月3日のヤーマス、12月16日のハートルプール砲撃に参加。
- 1915年1月25日のドッガー・バンク沖海戦で巡洋戦艦を中心とした英艦隊と交戦したが、僚艦の巡洋戦艦には遅れがちであり、また巡洋戦艦相手の戦闘に耐えるだけの防御にも欠け、撃沈された。
逸話
インヴィンシブル級巡洋戦艦を誤った情報から主砲口径を従来のものより若干大きくした装甲巡洋艦と判断したドイツ海軍では、前級のシャルンホルスト級装甲巡洋艦と同じ口径の21cm砲ながらも全て連装砲塔・長砲身化し、8門から12門に砲数を増加する事で戦闘力を底上げした建造中の本艦で充分対抗できるとしたが、相手は同速力で装甲はむしろ本艦に劣りながらも、兵装に関しては32cm砲8門という、もはや別次元の攻撃力を有する艦艇であった。
それでもそれなりの速力と攻撃力を有する事から、本艦はドイツ巡洋戦艦戦隊に配属されたが、それがドッガー・バンク沖海戦での喪失の遠因となった。
重巡洋艦
アドミラル・ヒッパー級重巡洋艦、二番艦。
主要データ
- 基準排水量:14,050t。
- 満載排水量:18,200t。
- 全長:203.8m。
- 全幅:22m。
- 武装:
- 20cm連装砲塔4基。
- 10.5cm連装高角砲塔6基。
- 37mm連装機関砲6基。
- 20mm連装機銃4基。
- 53.3cm三連装魚雷発射管4基。
- 装甲:水線80mm。甲板50mm。主砲前盾105mm。司令塔150mm。
- 最大速力:32ノット。
- 乗組員:1382名。
艦歴
- 1936年8月15日、1935年計画重巡洋艦Hとして起工。
- 1937年6月8日、進水。
- 1939年6月8日、竣工。9月20日、就役。
- 1940年4月8日、ノルウェー侵攻の「ヴェーゼル演習作戦」でオスロ攻略部隊である第五戦闘グループの指揮をとるオスカー・クメッツ中将の旗艦として装甲艦リュッツォウ、軽巡洋艦エムデン、水雷艇三隻を中心とした艦隊と共にキールを出撃。
- 4月9日、ノルウェー側が警戒態勢を既に取っているにもかかわらず、当初の予定通りの平和的進駐を装いながらオスロ湾の狭い水道に進入した部隊はオスロのオスカシボルグ要塞の砲撃を受け、ブリュッヒャーは被弾による舵の損傷で航行の自由を失い、更にカホルム島要塞の魚雷発射管からの雷撃で魚雷が二発命中して行動不能となり、やがて転覆した。
- このようなオスロでの激しい抵抗により、第五戦闘グループはオスロを制圧する事には成功したものの、任務の一つであるノルウェー王室逮捕を達成する事は出来なかった。
艦長
ブリュッヒャー沈没時は生存したものの、間もなく航空機事故で亡くなったという。
余談
初陣で沈んだ本艦はそれまでに砲撃・魚雷発射の試射は一回しか行っていない状態であり、ドイツ海軍総司令官エーリヒ・レーダー元帥もブリュッヒャーの使用に乗り気ではなかった。その一方、彼はヴェーゼル演習作戦から英艦隊を牽制する為に侵攻部隊に追随するには速力の遅い装甲艦リュッツォウの大西洋進出による通商破壊を計画していた。だが、ヒトラーは侵攻部隊トップクラスのリュッツォウの攻撃力をノルウェー侵攻作戦に使用すべきだと主張し、それを宥める為にレーダーはまずリュッツオウをオスロ攻略当初に使用した後、直ぐに大西洋の通商破壊に使用すると言う折衷案を提案。次にリュッツォウをオスロ攻略部隊から外す代わりにブリュッヒャーを編入する事で当初の通商破壊作戦を実行に移そうとしたが、ヒトラーはそれでも満足しなかった為に、結局、リュッツォウをトロンヘイム攻略に使用した後に通商破壊戦に出すという当初の折衷案に似たものを採らざるを得なかった。
しかし、リュッツォウの機関に損傷が見つかり、短期間で攻略を終えて修理の後に通商破壊に使用する為に、結局、オスロ攻略部隊に再び配属される事となった。
そんな紆余曲折の果て、ブリュッヒャーは沈み、更にリュッツォウもオスロから帰投中に英潜水艦スピアフィッシュの魚雷で艦尾を損失し、レーダーの計画は最悪な形で水泡に帰した。
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