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ナポレオン戦争

なぽれおんせんそう

ナポレオン・ボナパルト率いるフランス帝国がヨーロッパ諸国と戦った戦争。
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概要編集

そもそもナポレオン戦争は1792年から始まっていたフランス革命戦争と連続する出来事である為、ナポレオン・ボナパルトが司令官として第一次イタリア戦役に赴いた1796年、ナポレオンがクーデターによって政権を掌握した1799年、ナポレオンが皇帝に即位した1804年など、その始まりは様々な解釈に分かれている。なお、この記事では1792年のフランス革命戦争とまとめて記述する。


その名の通り、ナポレオンが主導したことからこの名前が付けられた。後にヨーロッパの覇権を左右する一大戦役となり、その影響は19世紀後半にまで及んだ。

イタリア遠征、マレンゴの戦い、トラフォルガーの海戦、スペイン反乱、ロシア遠征、ワーテルローの戦い等がある。初めての国民軍による近代的戦争と言われている。

ナポレオンが失脚する1815年まで続いた。


経過編集

フランス革命戦争編集

1789年に始まったフランス革命はフランス国内に多大な混乱をもたらした。王侯貴族の相次ぐ亡命、経済危機、革命政府内の政争、王党派との対立などで国内が混迷に陥る中、オーストリア皇帝(神聖ローマ皇帝)レオポルト2世プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世が「フランス王家の安全を守る為、直ちに武力を行使して革命に介入する」という主旨の共同声明(ピルニッツ宣言)を発した。

この声明は王党派や亡命貴族を中心とする反革命派を勢い付かせ、対する革命派はこれを最後通牒と見なして主戦論に傾いた。1792年、ジロンド派内閣はオーストリアへ宣戦布告を行い、フランス革命戦争が勃発した。

しかし革命に反発する貴族将校が多かったフランス軍の士気は低く、各地で敗走を重ね、瞬く間にオーストリア軍及びプロイセン軍がフランス領内へと侵入した。

この事を受けて愛国心の下に強固に団結した士気の高い軍隊を持つ事が必要となり、この考えの下で各地から募られた義勇兵によって編成されたフランス軍は緒戦の劣勢を覆す事に成功した。


第一次対仏大同盟編集

1793年1月21日、ルイ16世が死刑に処された。これは当時ヨーロッパにおいて最大級の国力を誇ったフランス王国が革命によって崩壊した事、そして革命が遂に王政を否定する事態に至った事を意味し、この事を受けてオーストリア・プロイセン及びイギリスを中心として第一次対仏大同盟が結成された。

同盟軍の猛攻に晒され、また国内の王党派などによる反乱等でフランスは窮地に立たされたが、数々の軍制改革や国民の団結に支えられて徐々に失地を回復していき、1793年末には反攻に転じた。12月19日のトゥーロン攻囲戦で、ナポレオンは王党派によって占拠されたトゥーロンの奪還に大きな役割を果たした事で一気に名声を挙げた。


第一次イタリア戦役編集

1794年のクーデターで成立した総裁政府は北のライン川方面と南のイタリア方面から同時侵攻してオーストリアを挟撃する作戦を画策し、1796年に第一次イタリア戦役が開始された。

トゥーロンでの勝利、そして1795年のパリで発生した王党派の蜂起(ヴァンデミエールの反乱)を鎮圧した功績でイタリア方面軍司令官に任命されたナポレオンは同年3月に攻勢に出た。補給がほとんど行き渡っておらず、数の上でも劣勢にあったフランス軍だったが、ナポレオンの巧みな指揮の下でカスティリオーネの戦い、アルコレの戦い、リヴォリの戦いなどで連戦連勝を収めた。ナポレオン率いるフランス軍は当時オーストリアの支配下にあった北イタリアの人々に「解放者」として歓迎された。

ナポレオンは1797年4月18日に停戦条約である「レオーベン仮条約」をオーストリアとの間で独断で締結し、続いて10月17日に正式な和約である「カンポ・フォルミオ条約」で休戦となった。この条約でフランスはネーデルラント南部(現ベルギー)及びライン川左岸地帯を併合した。

これにて第一次イタリア戦役は終結し、またオーストリアが戦争から脱落した事で第一次対仏大同盟は崩壊した。


エジプト遠征編集

第一次対仏大同盟が崩壊した後もイギリスは粘り強く戦争を継続しており、フランスは強力な海軍を有し、かつ制海権を握るイギリスに有効な打撃を与えられずにいた。そこでナポレオンはオスマン帝国エジプトへ遠征する事を総裁政府に進言した。当時エジプトはイギリスとその植民地であるインドの中継地として極めて重要な位置にあり、ここを占領する事で本国と植民地との連携を断ってイギリスを経済的に疲弊させる目的があった。

1798年5月19日にフランスを発ち、途中マルタ島を占領しつつ7月2日にアブキールに上陸したフランス軍は翌日に付近のアレクサンドリアを占領し、エジプトの首府カイロを目指して南下して行った。

ギザ近郊で繰り広げられたピラミッドの戦いで大勝を収め、次いでカイロも占領する事に成功するが、現地民にとってフランス軍は侵略者でしかなく、不満を持った人々との間で抗争が発生するようになり、統治はやがて不安定となっていく。

また、エジプトを占領されたオスマン帝国が宣戦布告してイギリスに接近し、ロシア帝国やナポレオン不在の隙を狙って復活したオーストリアも加わって第二次対仏大同盟が結成された。

ナポレオンは攻めて来るオスマン軍を撃退すべくシリアへと軍を進めるが、フランス艦隊がアブキールの海戦でホレーショ・ネルソン率いるイギリス艦隊に大敗を喫し、更にマルタ島をイギリス軍に占領されて補給路を断たれ、ナポレオン含むフランス軍はエジプトに孤立してしまう。

同盟軍がフランス本国への攻撃を開始している事を知ったナポレオンはエジプト・シリアでの作戦続行を断念し、本国への帰還を決意して1799年8月22日に戦線を離脱して単身フランスへ帰国した。現地に残されたフランス軍はその後2年ほど抗戦した後、1801年に降伏した。


第二次対仏大同盟編集

北イタリアのフランス軍は劣勢に立たされていた。第一次イタリア戦役で北イタリアに獲得した領土及び衛星国をオーストリア軍の攻勢で奪回され、また北のライン川方面でも一進一退の攻防戦が続いていた。こうした連戦連敗の状況に総裁政府に対する国民の不満は高まっていった。

政治家のシェイエスは政局の安定の為に憲法改正を望んでいたが、議会の反対に遭い中々実行できずにおり、彼はこれを軍事クーデターによって解決する事を考えていた。シェイエスはエジプトからフランスへ帰国したナポレオンと結託し、1799年11月9日にブリュメール18日のクーデターを実行して総裁政府を打倒した。

クーデター後は統領政府が樹立されるが、その過程でナポレオンとシェイエスとの間で政争が始まった。最終的には民衆の支持と軍事力を背景にナポレオンが主導権を握り、第一統領に就任して独裁的権限を掌握した。一方のシェイエスはナポレオンとの政争に敗れ、実権のない元老院議長となった。


第二次イタリア戦役編集

1800年、ナポレオンは反撃の為に再度イタリアへ出撃する事を決意した。5月20日、およそ3万人のフランス軍はアルプス山脈グラン・サン・ベルナール峠を越えてイタリアへ電撃的に侵攻を開始。

フランス軍が籠城戦を続けるジェノヴァを陥落させた後のオーストリア軍主力がトリノに集結している隙に背後から回り込んで攻撃しようという物だったが、退路を断たれたと悟ったオーストリア軍司令官メラスはフランス軍の占領地へ逆侵攻して戦況を打開しようとした。オーストリア軍がトリノに集結したままだと誤認したナポレオンはそのまま進軍し、そしてマレンゴで両軍は鉢合わせになった。6月13日のこのマレンゴの戦いはフランス軍の辛勝であったが、イタリアを制圧する事に成功し、また12月3日に北のライン川方面でフランス軍がホーエンリンデンの戦いでオーストリア軍を破るとオーストリアは戦意喪失し、和平交渉が始まった。

結果として1802年2月9日にオーストリアとの間で「リュネヴィル条約」が交わされ、先のカンポ・フォルミオ条約の内容が再確認されると共に、オーストリアが再び脱落して第二次対仏大同盟は崩壊した。

またナポレオンは革命以来深刻な対立が続いていたローマ教皇(革命によってフランス国内の教会が国家の管理下に置かれ、聖職者が法律上公務員の扱いとなり、憲法の遵守を宣言する事が義務となった事に教皇が強く反発した)との和解(コンコルダート)に成功し、同盟崩壊後も戦争を続けていたイギリスも1802年3月25日に「アミアンの和約」を結んで講和した。


1804年5月28日、ナポレオンは帝政の開始を宣言。同年12月2日にパリのノートルダム大聖堂にて戴冠式を行い、 “フランス人民の皇帝”ナポレオン1世」として即位。フランス帝国(第一帝政)が成立した。


第三次対仏大同盟編集

アミアンの和約締結以降、ヨーロッパ全土におよそ1年の平和が訪れた。しかし水面下ではイギリスが占領を続けていたマルタ島やフランス領だったハイチの独立を巡る対立が続いており、1803年5月16日にイギリスが和約を破棄し、フランスに宣戦布告を行った。

1805年、ナポレオンはイギリスへの上陸作戦を狙って北部のドーバー海峡に面したブーローニュに18万もの大軍を集結させていた。これに対してイギリスはロシア、オーストリア、スウェーデンなどを引き込む事で対処しようとした。ここに第三次対仏大同盟が結成され、ヨーロッパは再び戦争状態となる。

ライン川方面が手薄になっている隙を狙ってオーストリア軍が侵攻を開始した。対するナポレオンはブーローニュからおよそ600kmもの強行軍で機動戦を展開して反撃し、破竹の勢いでオーストリア軍を大敗に追い込んだ。このウルム戦役はナポレオンの大勝に終わり、そのままオーストリア領内へと侵攻して11月14日にはウィーンへの入城を果たしている。

陸戦では無敵の強さを誇る一方、フランス軍は海上での戦いには連敗していた。1805年10月21日のトラファルガーの海戦ではネルソン率いるイギリス艦隊にフランス艦隊が大敗を喫しており、フランス海軍は壊滅的な打撃を受けている。この敗北にナポレオンはイギリス上陸を断念せざるを得なくなった。

ウルム戦役で敗北した皇帝フランツ2世のオーストリア軍の残存兵力はモラヴィア方面へと逃れ、そこでロシア皇帝アレクサンドル1世率いるロシア軍と合流した。対するナポレオンもモラヴィアへと進出し、アウステルリッツ郊外でロシア・オーストリア連合軍と激突。「三帝会戦」とも呼ばれるこのアウステルリッツの戦いはナポレオン率いるフランス軍の圧倒的な勝利に終わった。

12月4日にフランツ2世はナポレオンと面会を行って休戦が合意され、26日には「プレスブルク条約」が結ばれて講和が成立した。1806年にフランツ2世は「ローマ皇帝」の地位を放棄した。この時を以てオットー1世の戴冠以降およそ800年以上に渡って続いた神聖ローマ帝国、そしてアウグストゥス以降続いたローマ帝国名実共に完全に消滅したが、フランツ2世自身は「オーストリア皇帝フランツ1世」としてオーストリアに君臨する事で皇帝位を維持した。

オーストリアが再び脱落した事で第三次対仏大同盟は崩壊。旧神聖ローマ帝国領にはナポレオンの衛星国であるライン同盟が建設され、その他ヨーロッパの地域にも衛星国が次々と樹立されていった。


第四次対仏大同盟編集

ライン同盟が成立した事でナポレオンの覇権はドイツ中部にまで及ぶ事となったが、これに危機感を抱いたのが当時中立を維持していたプロイセンであった。プロイセンは急遽同盟に加入し、第四次対仏大同盟が形成。1806年10月9日にフランスへの宣戦布告に踏み切った。

しかしプロイセンは機動戦を展開するフランス軍にイエナ・アウエルシュタットの戦いで大敗を喫し、瞬く間にプロイセン首都ベルリンへの入城を許してしまう。プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は東部に逃れ、そこでロシア軍と合流してフランス軍を迎え撃った。1807年2月7日のこのアイラウの戦いは両軍共に損害が大きく実質引き分けとなったが、続く6月14日のフリートラントの戦いでロシア軍に勝利を収め、プロイセンは敗北した。

ナポレオンはロシア皇帝アレクサンドル1世と会談を行い、1807年7月7日にロシアと、7月9日にプロイセンとそれぞれ「ティルジット条約」が結ばれ、両国は戦争から離脱した。こうして第四次対仏大同盟は崩壊し、ナポレオンの覇権は確実な物となった。

また1806年のベルリン制圧時にナポレオンは「大陸封鎖令」を出してヨーロッパ諸国にイギリスとの一切の貿易を禁じ、プロイセン・ロシア・オーストリア三国によって分割されたポーランドが旧領の一部がワルシャワ公国として独立した。


半島戦争編集

一方、スペインは混乱に見舞われていた。親仏派であるスペイン国王カルロス4世と親英派のフェルナンド王太子との対立が深まる中、フランス軍はポルトガルが大陸封鎖令への参加を拒否した事を理由に出兵した。国内にフランス軍が進駐する事になったのを受けて国内では政変が発生し、カルロス4世は退位して王太子がフェルナンド7世として即位した。しかしナポレオンはポルトガル出兵に向けてスペインを自身の衛星国とする事を目論み、1808年にフェルナンド7世を廃位して自身の兄ジョゼフ・ボナパルトホセ1世としてスペイン王に就けた。この事件にスペイン人は激怒し、マドリードで蜂起が発生した。この反乱はスペイン全土に波及し、イギリスが背後で反乱軍を支援した事で泥沼化していった。

ナポレオンは20万の大軍でスペインへ出兵して各地で勝利を収めるが、反乱軍側はゲリラ戦を展開して粘り強く抵抗した。イギリス軍は同じく抗戦していたポルトガル軍と合流してフランス軍と戦い、以後ロシア戦役でナポレオンが大敗を喫し形勢逆転するまで、およそ7年に渡って泥沼の戦いが続く事となる。


第五次対仏大同盟編集

フランスがスペインで苦戦している状況を好機と見たオーストリアはイギリスと第五次対仏大同盟を結び、再び対仏宣戦布告を行って1809年4月9日に攻撃を開始した。ナポレオンは再び機動戦を展開してオーストリア軍を追い詰め、5月13日にはウィーンに入城するが、三度に渡る敗北の反省からオーストリア軍も改革を行って軍隊の強化を行っており、フランス軍は苦戦を強いられた。

フランス軍はアルペン・エスリンクの戦いで敗北するが、続くヴァグラムの戦いではオーストリア軍に辛勝を収めた。

ヴァグラムの戦いの後、オーストリアとの間で休戦条約が交わされた。続いて10月14日に「シェーンブルン条約」が結ばれ、オーストリアは再びナポレオンに敗北を喫した。条約で領土を大幅に割譲され多額の賠償金を払う事となり、同盟から脱落した事で第五次対仏大同盟は瓦解した。

一方でこの条約でフランスは広大な領地を確保し、多数の衛星国や同盟国を獲得する事に成功し、ナポレオンの絶頂期が訪れた。


ロシア戦役編集

祖国戦争も参照

1806年に出された大陸封鎖令はイギリスを経済的に困窮させる目的の物であったが、逆にイギリスからの輸入品が入らなくなった事でヨーロッパ各国は困窮した。そのような中、1810年にロシアが封鎖令を反故にしてイギリスと貿易を再開。ナポレオンはこれを裏切りと見なし、ロシアへの出兵を決意した。

1812年6月23日、ナポレオンは70万余りの大軍を率いてネマン川を越え、ロシア戦役が始まった。

ロシアの将軍バルクライ及びクトゥーゾフは会戦ではナポレオンには勝てないと悟り、広大な土地を利用してなるべく正面衝突を避けて焦土作戦を展開する事でフランス軍が疲弊するのを待った。

コサック騎兵の奇襲などに悩まされながらもフランス軍はモスクワを目指し進軍し、ボロジノの戦いで辛勝した後に9月14日に遂にモスクワへ入城する。しかしモスクワはロシア兵による放火で火の海となり、遠征が失敗したと悟ったナポレオンは10月19日に撤退を決めた。

撤退するフランス軍に対し、コサック騎兵や農民がゲリラとなって追撃を加えた。11月に入るといよいよ冬も厳しくなり、厳しい寒さと飢えで脱落する兵士が相次いだ。またフランス軍がベレジナ川を渡って撤退する時、クトゥーゾフは遂に反撃を決意し、橋を架けて撤退するフランス軍に対し会戦を挑んだ。

冬の厳しさとロシア軍の猛攻の前にフランス軍は為す術もなく壊滅し、12月10日に生きてロシアを脱出できたフランス兵は僅か5000人ほどであった。


第六次対仏大同盟編集

1813年3月17日、ナポレオンがロシアで完膚なきまでに敗北した事を知ったプロイセンは反旗を翻して対仏宣戦をした。更に既に戦闘を行っていたイギリス・ロシア・スペインにオーストリアやスウェーデンも合流して第六次対仏大同盟が結成された。

既にロシア戦役で疲弊し切ったフランス軍は潰走を続け、ナポレオンはライプツィヒで主力をかき集めて会戦を挑んだ。10月16日のこのライプツィヒの戦いは、兵力で勝るプロイセン・オーストリア・ロシア・スウェーデンの連合軍に包囲殲滅され、更にドイツ地域にあったフランス同盟国の一部も離反した事で大敗を喫し、ナポレオンはフランス本国への撤退を余儀なくされた。また、同時期にスペインでの戦闘もイギリス・スペインの勝利で決着し、イギリス軍が南のピレネー山脈からフランスへと侵入を開始した。

12月21日、同盟軍は遂にライン川を越え、フランス本土への全面侵攻を開始した。40万を数える大軍が国内へと雪崩れ込み、フランス戦役が始まった。ナポレオンは局地的な戦いで次々勝利を収めるものの全体的な劣勢を覆す事は叶わず、1814年3月31日には帝都パリが陥落。4月6日にはナポレオンは退位を余儀なくされた。


第七次対仏大同盟編集

ナポレオンの退位後、彼は1814年5月4日にエルバ島の小領主として同地に追放された。フランスにはブルボン朝が復活し、戦後の講和会議としてウィーン会議が開かれたが、「会議は踊る、されど進まず」と言われるように会議は各国の利害が対立して交渉は遅々として進まず、この隙にナポレオンは1815年2月26日にエルバ島を脱出し、3月20日にはパリへ入城して皇帝へ復位した。

これに対し、同盟国はウィーン会議でナポレオン打倒で一致し、第七次対仏大同盟を結成した。ヨーロッパのほぼ全ての国家が参戦し、再びフランス国内へと侵攻した。

ナポレオンはこれに対し、同盟軍が合流する前に各個撃破を狙ってフランス軍主力を率い、ベルギーへと侵攻した。6月15日のリニーの戦いでプロイセン軍を破り、グルーシー将軍の部隊を残るプロイセン軍の追撃に向かわせて、自身はイギリス・オランダ連合軍と決戦する為に6月18日にワーテルローへ向かい、ワーテルローの戦いが始まった。

敵味方合わせ総勢およそ13万の大軍が激戦を繰り広げる中、グルーシー将軍の追撃を振り払ったプロイセン軍が合流した事で形勢逆転し、ナポレオンはこの戦いで惨敗した。潰走するフランス軍に対しプロイセン軍は猛攻を加え、フランス帝国は瓦解した。


戦後編集

1815年6月22日、ナポレオンは再び退位させられる事となった。10月15日に大西洋の孤島であるイギリス領セントヘレナ島へと追放され、1821年5月5日に死去し、51年の生涯に幕を下ろした。

1792年以来23年間に渡って続いたナポレオン戦争及びフランス革命戦争は、1815年11月20日の講和条約「第二次パリ条約」を以てようやく終結した。


戦後、ウィーン会議にて「ウィーン議定書」が成立した。これを基にしてフランス革命以前の反動保守的なヨーロッパの国際秩序である「ウィーン体制」が敷かれ、自由主義や民族主義運動は抑圧された。結果として比較的長期間の平和をヨーロッパにもたらしたが、ナショナリズムの勃興、革命の再発、各国間の国益を巡る対立と共に徐々に不安定化していった。


影響編集

ナポレオン戦争は「近代」という時代の幕開けとなったと言っても過言ではなく、その影響は世界中に及んだ。

戦争を通じてフランスの占領地が拡大にするにつれ、民主主義や共和制、近代法、特権階級の廃止、ナショナリズムといったフランス革命によって生まれた様々な近代思想や制度が各国に浸透する事となり、これら革命の思想は後にヨーロッパで同時多発的に発生した1848年革命国民国家の形成、19世紀後半のドイツやイタリアの統一国家形成、ラテンアメリカ諸国の独立などに大きく寄与した。

また、ナポレオン在位中に編纂された『フランス民法典』(ナポレオン法典)は日本を含む世界各国の数々の民法の基礎となった。

一方、フランス国内においては1871年の普仏戦争時に第三共和政が成立するまで断続的に革命が頻発する不安定な時代を迎える事となり、一方で20年間の戦乱で人口が激減してヨーロッパの覇権を握る事は不可能となった。


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