国民が承認した『帝位』
1804年にフランス共和国国民議会第一執政だったナポレオン・ボナパルトが議会上院と国民投票により得た帝位
正式号はEmpereur des Français。「フランス人の皇帝」ナポレオン1世の誕生である。
帝位の理由
ナポレオンは安定した独裁的権力を必要としていたが、共和派の支持によって台頭した立場である以上フランス国王になる訳にはいかなかった。
フランス国家の源流の一つに、ローマ帝国がある。ローマ帝国は共和制を標榜し、互いに対等な市民の「第一人者」としての「ローマ皇帝」を置いていた
ローマ皇帝ならば、共和制の諸制度と独裁的な権力が両立しうる可能性が出てくることになる。
ブリュメール18日のクーデターをナポレオンと共に起こしたシェイエスらは、ローマの執政官、コンスルを模した三人の統領(コンスル)からなる統領政府を構成した。ナポレオンはその第一統領になって次第に権力を自らに集中していく。
そして戦勝と外交の成功を背景に、ナポレオンは神聖ローマ皇帝同様に、ローマ教皇を招いて皇帝としての戴冠式を行った
ただし、ナポレオンは専制者としての「フランス国の皇帝」ではなく「フランス人民の皇帝Empereur des Français」を名乗った。
また、その支配はあくまでもフランス共和国憲法に基づくものであると位置付けて、「神の恩寵および共和国の憲法下でのフランス人の皇帝」を名乗った。
ナポレオン1世は戦勝記念としてかつてローマ皇帝が戦場から帰ってくるときに『凱旋門』という門をくぐっていた伝統をこれまた模した。エトワール凱旋門である。
しかし大きさがかつてのそれとは桁違いに巨大なところは違っていた。
どうも1世は『アウグストゥス』を目指していたようだ。
しかし、皮肉なことにこの凱旋門が完成したのは1836年。1世の死後15年が経っており、4年後にパリに改葬するため無言の帰国の際、彼の棺がエトワール凱旋門を潜った。