人物/生涯
1783年4月10日、フランス王国のパリ生まれ。
父親はアレクサンドル・ド・ボアルネ子爵。
母親は後にナポレオン・ボナパルトの最初の皇后となるジョセフィーヌ。兄はイタリア副王ウジェーヌ・ド・ボアルネ。
自身が出生後に父親のボアルネ子爵と母親のジョセフィーヌが離婚。ジョセフィーヌが愛人を作っていたことからオルタンスは愛人の子供ではないかと疑っていたという。
その後、兄のウジェーヌはボアルネ子爵に引き取られ、自身はジョセフィーヌに連れられてマルティニーク島にいたが1789年にフランス革命が勃発し、フランスに帰国する。
両親が監獄に入れられる事態になるも兄とウジェーヌとともに両親の無事を祈りながら家庭教師の元で生活をしていた。その後、母親のジョセフィーヌは釈放されるが父親のボアルネ子爵は処刑されてしまう。
11歳になった頃にマリー・アントワネットの侍女であったカンパン夫人という女性が創設したサン=ジェルマン学院に入学。
母親がカンパン夫人と親しかったのもあり、家庭の事情が考慮されて通常より学費を減額されていた。
成績表の評価によると『女市民シトワイエンヌオルタンス・ウジェニー・ボアルネはこの上なく優れた性質を備えています。善良で感受性が強く、落ち着いた性格です。うわの空になりがちな点を改善すれば、申し分ないでしょう』。「カンパン夫人:フランス革命を生き抜いた首席侍女 」(白水社)より。
歴史などが苦手だったが足が速く、芸術など秀でていたという。
ジョセフィーヌ譲りの分け隔てもなく親切で朗らかな人柄だったことから投票によって決まる「優れた性格賞」にも選ばれたことあったが、いつも謙虚に振る舞っていたと伝わっている。
13歳の時には母親のジョセフィーヌがナポレオン・ボナパルトと再婚。
ナポレオンとの結婚に兄のウジェーヌは反対、自身は反対はしなかったものの、その後カンパン夫人からナポレオンの活躍ぶりを称賛する言葉を聞くと「お母さまに対しても勝利を収められたことに対しては、決して許すことはできない」と返し、義父に対して一線を画している状態であった。
距離を置かれていることもあってかナポレオンは嫌われてると思い、がっかりしていたという。
しかし、オルタンス自身が徐々に態度を軟化させて、ついに手紙を出したことにナポレオンが感激し、喜ばしいことだとジョセフィーヌに宛てて手紙を送っている。
以降、ナポレオンは生涯に渡りオルタンスを愛娘として溺愛することになる。
18歳頃にナポレオンの弟であるルイ・ボナパルトと結婚。
ナポレオンがルイに信頼を置いていたことやジョセフィーヌとナポレオンが遠くに嫁に出すことを躊躇っていたと言われている。
しかし、ルイは軽い半身麻痺があり陰気な性格で一方オルタンスは社交的な性格だったこともあり、夫婦仲は最悪であった。
1802年に第一子であるナポレオン・シャルルが誕生し、ナポレオンが自身の後継者として養子にすることを望んでいたが、僅か5歳で夭逝してしまう。
ナポレオンが1804年にフランス皇帝として即位すると1806年にルイはホラント(オランダ)国王に、オルタンスは王妃になったが夫婦仲は悪いままであった。
やがてシャルル・ド・フラオと不倫関係となり、ナポレオンもそのことを知ったが彼女に不幸な結婚をさせることになった負い目から黙認したらしい。
ルイとオルタンスは1810年に離婚。
3人の息子のうち、1808年に誕生した三男のルイ・ナポレオン(後のナポレオン3世)はオルタンスが引き取ることになった。
離婚後はシャルル・ド・フラオと同棲する。
同年にはナポレオンとジョセフィーヌが離婚することになり、ウジェーヌとオルタンス兄妹は衝撃を受けて悲しんだという。
離婚式でのジョセフィーヌはショックで憔悴しており、オルタンスが支えて歩くのがやっとだったとか。
そして1811年にルイ=ナポレオンの異父弟シャルル・オギュスト・ルイ・ジョゼフ(後のモルニー公爵)を生んだが、結局結婚はせず、この息子はシャルル・ド・フラオが引き取ったらしい。
オルタンスは皇族の一員として、皇后の称号を保持することが許され、マルメゾン城で生活を始めた母親と新しく皇后になったマリー・ルイズの世話に明け暮れるが1811年にナポレオンが失脚し、エルバ島に流されてしまう。
そんな中、ナポレオンに勝利したアレクサンドル1世の訪問をマルメゾン城で受けることになる。
ジョセフィーヌやウジェーヌ、オルタンス兄妹と親交が深まったアレクサンドル1世はオルタンスの子供たちを非常に可愛がっていたという。
1814年にアレクサンドル1世とジョゼフィーヌと共に庭を散策した最中、母親のジョセフィーヌが体調を悪化させてしまい、床に伏せてそのまま死去しまっている。
1815年のナポレオンの百日天下の間、オルタンスはテュイルリー宮殿にナポレオンより一足早く入り、女主人の役目を務めた。
敗北を重ね続けるナポレオンを支え続けるも彼がセントヘレナ島に追放されることが決まると次男と三男(ナポレオン3世)を連れて別れを惜しみ、お金に困らないようにとベルトの裏に隠すように縫い付けた自身のダイヤモンドのネックレスをナポレオンに贈っている。
ジョセフィーヌの娘だと嫌悪感を抱いていたマリア・レティツィア・ボナパルトはナポレオンを献身的に支える彼女の姿を見て改心し、和解している。
フランス帝国崩壊後は各国を転々としながら亡命した後、スイスのチューリヒ州の城館アレネンベルクを買い取り、以降はそこに定住した。
ボナパルト一族への迫害が強くなる中、三男のルイ・ナポレオン(ナポレオン3世)にナポレオン・ボナパルトの偉大さを伝え、以後、彼が後継者として名乗りを上げることにつながっている。
1837年10月5日、子供たちに見守られて子宮癌により54歳で亡くなった。
最期までボナパルト家の一員として振る舞い、また皇妃らしく偉大な女性であったと言える。
子孫
オルタンスの庶子であるシャルル・オギュスト・ルイ・ジョゼフ(モルニー公爵)の庶子から現在に至るまで血がつながっており、子孫がいる。
ボナパルト家の家系図より、ナポレオン1世の庶子の末裔とされる子孫とは婚姻によって家系が合流している。
(ナポレオンの子である信憑性は低いがナポレオンの愛人であったフランソワーズ=マリー・ルロイ・ペラプラの子孫はリュシアン・ボナパルトの子孫と結婚しているのでボナパルト家とは一応つながっている。)
余談
- ルイ・ボナパルトと結婚する前にナポレオンの副官でもあるジェラール・クリストフ・ミシェル・デュロックと恋人関係であった。二人の関係を知っていたナポレオンは結婚自体に賛成だったが、婿養子を迎え入れる気はなく、実質手切れ金とも言える持参金を持たせ、挙式後にフランス南部の任務にあたってもらうことをデュロック本人に通達する。しかし、呼び出された彼は"義理の息子として何もしてくれないのなら…"とオルタンスを諦めてしまい、二人の関係は終わってしまった。
- エジプト遠征後に母親のジョセフィーヌの浮気に激怒し、離婚を決意したナポレオンに対して兄のウジェーヌと涙ながらの嘆願をして離婚する考えを改めさせている。
- マリー・ルイズと再婚したナポレオンから今後、ジョセフィーヌも自分の側で公式の場に出席してほしいと要請されたことに対してウジェーヌと共に反対し、白紙にさせている。
- ナポレオンの元婚約者で後のスウェーデン国王カール14世ヨハン(ベルナドット将軍)の妃となるデジレ・クラリーとは母親のジョセフィーヌが婚約破棄の一因となっているが、その娘であったオルタンスとは仲良く、デジレが産んだオスカル1世の妃はジョセフィーヌの孫でオルタンスの姪(兄ウジェーヌの娘)である。
- ボアルネ一家を援助してくれたアレクサンドル1世はオルタンスに好意を持っていたと言われている。
- オルタンスは作曲を得意としていてフルーティストのルイ・ドルエの協力を得て、ロマンス『忠実な騎士』(Le bon chevalier)などを作曲している。この曲はフランツ・シューベルトが作曲した『フランスの歌による変奏曲』の基になっている。