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プロフィール編集

名前 ナポレオン・ボナパルト(フランス語 : Napoléon Bonaparte)
出生名 ナポレオーネ・ディ・ブオナパルテ(イタリア語 : Napoleone di Buonaparte)
生存 1769年8月15日 - 1821年5月5日
在位 1804年 - 1814年、1815年

概要編集

革命期フランスの軍人・政治家。コルシカ島アジャクシオ出身で、父親カルロはコルシカ独立運動の指導者パスカル・パオリの副官だったがフランス側に寝返り息子達をフランスに送り込み教育を受けさせた。


父方のブオナパルテ家はイタリアのトスカーナ貴族を発祥とし、母方のラモリーノ家もイタリアのロンバルディア地方の貴族の家系であった。

そのため、元々の出生時の名前もナポレオーネ・ディ・ブオナパルテというイタリア人名の綴りであった。

故郷のコルシカ島を独立させる事を夢見て、亡命していたイギリスからコルシカに帰国したパオリを尊敬していたが、彼がイギリスを同盟国にしようとしたのに対してフランスとの同盟を主張して対立し、ナポレオンの弟のリュシアン・ボナパルトがパオリを裏切り者として告発した事で、フランスの国民公会からイギリスの手先として告発された事にパオリは激怒し、ナポレオンは家族ともどもコルシカ島から追放される事となり、これを機にコルシカ人として生きる道を失った彼はフランス風の人名ナポレオン・ボナパルトへ改名している。


彼が軍人となったフランスはフランス革命の波及を恐れた欧州諸国による対仏大同盟の侵略を受け、崩壊寸前の危機にあった。ナポレオンはその軍事的才能により頭角を現し、たびたび諸国の軍勢を打ち破りついに大同盟の軍勢を国外に敗走させて救国の英雄となった。

また、末端とは言え貴族階級の出だった事から、革命軍の中では比較的地方貴族や聖職者に対して寛容であった。ライバルのオッシュ将軍の宥和策を発展させる形でフランス西部のヴァンデやブルターニュで起こっていた土着中小貴族と農民の連合軍の反乱を慰撫して内戦を終結させ、カトリックとも「フランスの法律を尊重すると宣誓した聖職者の中からローマ法王が司教等を任命する」と歩み寄りを見せて宗教問題を解決に導いた。また、内戦で荒廃した地域の復興や生産・流通網の再建にも辣腕を振るい、封建的身分特権は失ったものの家屋敷とその周囲で直営可能な農地を返還されて富農として再出発した地方貴族や内戦で被害を受けていた農民達の支持も獲得して行った。

こうして彼はナポレオン1世として、フランス第一帝政の皇帝になる。これによって軍事独裁政権でありながら革命の精神による共和制でもあるという政体を打ち立ててフランスの混乱を収拾する。さらには軍事的勝利を重ね、革命の精神を諸国に輸出することでイギリスを除くヨーロッパの大半を勢力下に置いた。一方で一連のナポレオン戦争では約200万人の命が失われたといわれている。

フランス革命の時流に乗って皇帝にまで上り詰めたナポレオンだが、未だ敵対するイギリスとの欧州各国の通商を禁じる大陸封鎖令の勅令を1806年に出すも、それを拒絶したポルトガルに1807年10月に侵攻して占領。更にスペインの政変に乗じて1808年5月に兄のジョゼフ・ボナパルトをスペイン王に就かせるもそれに対する暴動が発生し、イギリスの介入もありイベリア半島での戦いは泥沼化し、彼の栄華に陰りが見え始める。

更に大陸封鎖令を破るなどで対立したロシアに1812年6月24日45万の大軍を率いて侵攻するも、決戦を避け後退するロシア軍に翻弄され、9月7日のボロジノの戦いも犠牲ばかり多く決定打とならず、冬の到来で撤退するも酷寒のロシアの気候と追撃は厳しく帰れたのは1万名程に過ぎず、彼の凋落は決定的なものとなった。

そして自身が鼓舞した諸国民のナショナリズムによって再び結成させた第六次対仏大同盟に1813年10月のライプツィヒの戦いで敗れ、1814年のフランス国内戦でも敗れて彼自身の帝国が滅亡した挙げ句エルバ島に流罪という皮肉にも飼い犬に手をかまれる結果に終わった。


1815年2月26日に諸国の混乱に乗じてエルバ島から脱出し、いったんフランス帝国を復興させるも、最後は6月18日のワーテルローの戦いに敗れた後、10月に英領セントヘレナ島に流罪・幽閉され、数年後に病死。今際には最愛の妻ジョゼフィーヌの名とフランスの国名を叫んで没したという。死因は公式には胃癌とされているが、立場が立場だけに暗殺説が長く流布された(死後19年経って発見された遺体がほとんど腐敗していなかった事からヒ素中毒と言う説もある)。その後セントヘレナに墓が建てられた。

しかし、生前に用いて広めた法・政治・軍事等の制度は、その後のヨーロッパにおいて共通のものとなった。かつて古代ローマの法・政治・軍事が各国に伝播していったこと以上の影響を世界に与えたと見ることもできる。


死後、1840年に遺体はフランスに返還され、現在はパリにあるオテル・ド・サンヴァリッド(廃兵院)地下の巨大な棺に眠る。


戦術編集

ナポレオンの得意としたのは他国の軍隊を機動力で圧倒して勝利するもので、会戦場所に相手が集結する前に自軍の軍隊を集結させ数の優位を確立して勝利する事であり、それを応用すれば相手がこちらより数が多かろうと、部分的に数で優位な状況を生み出し、相手を各個撃破して勝利する可能性を与えるものであった。その機動性の為に国民皆兵で増大した兵士を指揮するのに従来の横隊隊形よりも訓練がかからない縦隊隊形を重視し、巨大化した軍隊を独立した軍団に分割して柔軟な行動を行なえるようにし、大砲も機動性を持たせる為に他国よりも軽量の物を造り運用した。

また彼は敵軍と決戦して戦い破壊する事を第一と考えており、積極的に敵領土への侵攻を行い、現地調達で補給の負担も軽減させた。

無論、略奪に手間取って時間を浪費していては本末転倒なので、直径21mmで純金5.8gを含むナポレオン金貨を大量生産し、ヨーロッパ各国に同規格の金貨を普及させて、「ヨーロッパ中何処に行ってもフランス規格の金貨が通用する」状況を作り出して物資の叩き買いの効率を向上させた。


このように人類史上屈指の知略家であったことは異論がないが、詳しく戦歴を見ると「知略の冴え」だけでは説明のつかない事態も多い。予定が狂って戦略もクソもなくただ正面からぶつかる羽目になったことは多々あったし、ナポレオン本人が乱戦に巻き込まれて銃弾で帽子を撃ち落とされたことは数え切れない。それでも彼の軍は平然と二倍の敵を打ち破り、勝利を掴み続けた。こういった「居るだけで自軍が強くなる」カリスマと「敵の弾が避けていく」強運も、大陸軍の強さを支えていたと言えるだろう。ナポレオンは銃と火薬の時代にありながら、矛戈を取って戦っていた古の猛将たちの特性も兼ね備えていたのである。

トラッヘンベルク=ライヘンバッハ・プラン編集

ナポレオンはその傑出した軍事的才能でライプチヒ会戦、ワーテルロー会戦で敗れた以外は、彼が指揮した会戦でほぼ無敵の状態であったが、それは彼の才能に配下の多くの将軍達が依存する結果となり、ナポレオンの命令だけをこなす自発性を失った者へと変貌させていった。

その傾向は半島戦争でナポレオン自身が介入した折にはイギリス軍をイベリア半島より追い払うも、其れ以外では配下の将軍達はイギリス軍に敗北続きであった事からも表れていた。

1813年、ロシア遠征の失敗で大損害を受け、新たに大陸軍を再建したものの新兵ばかりの筈のナポレオンにリュッツエン会戦バウツェン会戦と敗れたロシア、プロイセンは休戦中に新たに自陣営に加える事に成功したオーストリア、スウェーデンとのトラッヘンベルク(オーストリアを除く)、ライヘンバッハとで開かれた協議である戦略の合意に達した。

それはザクセンのフランス軍主力を三方より攻撃するも、ナポレオンの軍事的才能を認め、彼と戦う事は避けて後退し、彼のいない別の場所で攻勢に出て、彼がそちらに向かえばこれと戦う事を避け、別の場所で攻勢に出るという事を繰り返す事で消耗戦に持ち込み、予備兵力の不足しているフランス軍を瓦解させる事を目的としていた。

この諸国民戦争でもナポレオンは5日間で200㎞を走破してドレスデン会戦で14万弱の軍勢で21万強のオーストリア・ロシア軍を破りその軍事的天才ぶりが健在である事を証明したが、他の将軍達は敗北を重ね、ナポレオンは追い詰められ、ライプチヒ会戦で19万ほどの軍勢で36万のオーストリア・ロシア・プロシア・スウェーデンの軍と戦う事となり遂に敗れた。

そして1914年のフランス国内戦でも5万のゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヒャー率いるシュレージェン軍と20万のシュヴァルツェンベルク公爵カール・フィリップ率いるボヘミア軍が合流する前にナポレオンは各個撃破を目論んで3万でシュレージェン軍に六日間の戦役で連勝するも、フランス軍を撃破してパリへ進軍するボヘミア軍に対応する為にシュレージェン軍に止めを刺せず、ボヘミア軍がナポレオンとの戦闘を避け後退するや、今度は態勢を立て直したシュレージェン軍が北部で攻勢に出てナポレオンを吊り上げ、ボヘミア軍が前進する。ナポレオンは両軍の背後にまわりこみ相手の補給路寸断する構えを見せる事で対抗するも、ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリーのイギリス軍が対峙していた10万のフランス軍に連勝してピレネー山脈を越えてフランスに侵攻した事を知ったボヘミア軍はもはや補給路が断たれる危険を考慮せずパリを占領し、やる気を失ったフランスの将軍達の反抗もありナポレオンは退位を余儀なくされる展開は全体的にトラッヘンベルク=ライヘンバッハ・プランに沿うものでナポレオンという軍事的天才の個人としての限界を示すものであった。


内政編集

軍事的才能に注目されがちであるが、内政にも力を入れ、税制・行政の整備、荒廃した産業振興の支援、フランス銀行設立しての通貨の安定、公共教育法を制定しての教育改革を行い、なかでも自身が「私の真の栄光は40の戦闘に勝利した事でなく、何ものも消せず、永遠に生き続ける」として誇りとしたのは各地の慣例法、封建法を統一した民法典であるフランス民法典に携わり、1804年に公布したことであった。これはナポレオン法典とも呼ばれる。

ナポレオン金貨もヨーロッパ大陸の過半で通用する規格として110年間も使われた。


ナポレオンコピペ編集

エルバ島から脱出、フランス帝国復興時の新聞の動向を現したコピペ


「5月9日 ”悪魔”が流刑置を脱出した」

「5月10日 コルシカ生まれの”人喰い鬼”はジュアン岬に上陸」

「5月11日 ”猛虎”はガップに現れた」

「5月12日 ”悪魔”はグルノーブルに進出」

「5月13日 ”僭主”は今リヨンに居る」

「5月18日 ”簒奪者”は首都に接近」

「5月19日 ”ボナパルト”は軍を率い前進」

「5月20日 ”ナポレオン”は明日パリ城壁に」

「5月21日 ”皇帝ナポレオン”は今フォンテンブローにいる」

「5月22日 ”皇帝陛下”は昨夕、チュイルリー宮殿に到着あそばされた」


このコピペは創作とも言われるが、当時のと言うかマスコミ(っつーかマスゴミ)の本質を現しているとも言える。すなわち、マスコミは体制に媚びへつらうもので、主体性が無いというわけである。

有名な逸話であるが、このコピペの見出しが書かれた新聞は何処にも残っていないため、都市伝説の類とも言われている。


関連イラスト編集

Napoléonナポレオン


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