ピクシブ百科事典は2024年5月28日付でプライバシーポリシーを改定しました。改訂履歴

ウジェーヌ・ド・ボアルネ

うじぇーぬどぼあるね

フランス皇子、イタリア副王、ヴェネツィア公、フランクフルト大公、ロイヒテンベルク公、アイヒシュテット侯。ナポレオン・ボナパルトの義理の息子。母はナポレオン1世皇后ジョセフィーヌ・ド・ボアルネ。妹はホラント王妃、ナポレオン3世の母オルタンス・ド・ボアルネ。
目次 [非表示]

人物編集

1781年9月3日、フランス王国のパリ生まれ。


父親はアレクサンドル・ド・ボアルネ子爵。

母親は後にナポレオン・ボナパルトの最初の皇后となるジョセフィーヌ・ド・ボアルネ

妹はホラント王妃、ナポレオン3世オルタンス・ド・ボアルネ


妹であるオルタンスの出生後に父親のボアルネ子爵と母親のジョセフィーヌが離婚。


その後、自身は父ボアルネ子爵に引き取られ、妹のオルタンスは母ジョセフィーヌにとともに母の実家があるマルティニーク島に滞在。


しかし、1789年にフランス革命が勃発し、ボアルネ子爵が逮捕され、投獄されると知らせを受けた母ジョセフィーヌはオルタンスを連れてフランスに帰国する。


母ジョセフィーヌがボアルネ子爵の助命のために活動していたものの、その罪で監獄に入れられる事態になる。


ウジェーヌはオルタンスとともに家庭教師の元で生活をしていたが、その後、母ジョセフィーヌは釈放されるが父ボアルネ子爵は処刑されてしまう。



生活のために総裁政府のポール・バラスの愛人となった母ジョセフィーヌがナポレオン・ボナパルトの求婚を受け1796年に結婚したことで妹オルタンスとともに彼の養子となる。


エジプト遠征においてナポレオンの補佐官としてスエズ攻撃とアブキールの戦いに参加。


フランスに帰国後、ブリュメール18日のクーデターを成功させた継父ナポレオンが第一執政に就くと国の最高権力者となるとウジェーヌはマレンゴの戦いと第二次イタリア遠征において若くして指揮官を務めた。


1802年、彼は大佐となり、1804年初頭には准将となった。


1804年12月2日にナポレオンがナポレオン1世としてフランス皇帝に即位すると1805年2月1日にフランス皇子の称号が与えられ、同年7月7日 にイタリア副王となる。


1805年の遠征後にバイエルン王女オギュスタ=アメリーと結婚し、さらにヴェネツィア公の称号を与えられる。


1809年の遠征では初めて最高司令官を務め、オーストリア軍に対して最初のサチーレの戦いで敗れるものの、その後の戦いでは連勝を重ねて勝利する。


ナポレオンがジョゼフィーヌと離婚する決意を固めるとナポレオンに召還されてパリへ行き、ジョセフィーヌに対して離婚の意思を伝えるように求められる。


1810年にナポレオンと母ジョセフィーヌが離婚。(同年には妹オルタンスも夫ルイと離婚している。)


兄妹は衝撃を受けて悲しみ、ウジェーヌは側近を辞する意思があることを伝えるとナポレオンとジョセフィーヌ

の涙ながらの懇願によって断念している。


同年に継父ナポレオンがオーストリア皇女マリー・ルイズと結婚し、1811年には嫡子のナポレオン2世が誕生している。


1812年、イタリア軍の指揮権し、ロシア征服を開始。


オストロヴノの戦いによって英雄として扱われたが、連続する戦闘とロシアの過酷な環境によって肉体的、精神的にも多大な負担をかけ続け、彼の髪の毛と髭は白く染まった。


1814年1月にナポレオンからの召還に応じないまま、対仏同盟軍によって3月31日にはフランス帝国の首都・パリが陥落し、フランス帝国が崩壊。



同年4月26日にはイタリア副王を放棄することを余儀なくされ、家族とともに妻の実家バイエルンに亡命。


それでも母ジョセフィーヌ、妹オルタンスと甥たちを見捨てずにパリに赴き、ジョセフィーヌの居城であるマルメゾン城にてアレクサンドル1世らと親交を深める最中、5月に実母ジョゼフィーヌが死去。


1815年のナポレオンがパリに帰還するがウィーンに滞在し、戦いには参加しなかった。


ナポレオンの百日天下、ワーテルローの戦いでの敗北、2度目の廃位、いずれにおいても、ウジェーヌは静観したが、妹オルタンスと甥たちの亡命には支援している。


舅からロイヒテンベルク公爵位とアイヒシュテット侯領を与えられ、その後、1824年2月21日、ミュンヘンにて脳卒中のため42歳で没する。


荘厳に葬儀は行われ、舅であるバイエルン王は個人的に喪に服した。妻オギュスタ=アメリーの家族とバイエルン国民は、心から彼の死を嘆いた。


子女編集

妻:オギュスタ=アメリー・ド・バヴィエール(マクシミリアン1世)


第1子長女:ジョゼフィーヌ・マクシミリエンヌ・ウジェニー・ナポレオーヌ(1807年 – 1876年) - スウェーデン=ノルウェー王オスカル1世妃。


第2子次女:ウジェニー・オルタンス・オギュスト (1808年 – 1847年) – ホーエンツォレルン=ヘヒンゲン侯コンスタンティン妃。


第3子長男:オギュスト・シャルル・ウジェーヌ・ナポレオン (1810年 – 1835年) – ロイヒテンベルク公。サンタ・クルス公。ポルトガル女王マリア2世の最初の王配。


第4子三女:アメリー・オギュスト・ウジェニー・ナポレオーヌ (1812年 – 1873年) – ブラジル皇帝ペドロ1世の2度目の皇后。


第5子四女:テオドランド・ルイーズ・ウジェニー・オギュスト・ナポレオーヌ (1814年 – 1857年) – ヴュルテンベルク伯爵およびウラッハ公爵ヴィルヘルム1世夫人。


第6子五女:カロリーヌ・クロティルド(1816年 – 1816年)


第7子次男:マクシミリアン・ジョセフ・ウジェーヌ・オギュスト・ナポレオン (1817年 – 1852年) – ロイヒテンベルク公およびロシアのロマノフスキー公。


子供たちの婚姻によってノルウェー、スウェーデン、デンマーク、ギリシャの各王家に子孫がいる。


余談編集

  • 継父ナポレオンと母ジョセフィーヌの出会いはジョセフィーヌの愛人であったポール・バラスの縁であるとされることが多いが、パリ市民の武器所有の禁止令によって形見である故ボアルネ子爵のサーベルも軍に提出しなければならない状況となった際に回収しに来た軍人のアドバイスによって軍部にウジェーヌ自ら赴き、その責任者であったナポレオンと面会し、所有する許可を貰ったことがきっかけで二人は出会ったとナポレオンの『セント・ヘレナ日記』やウジェーヌと妹オルタンスの回想録に同じことが書いてあることから後者の方が信憑性が高い。

  • スウェーデン王太子候補の一人となったベルナドットからの手紙を受けた継父ナポレオンからより好ましい候補として王太子に望まれたが自ら断わっている。その後、ベルナドットがカールヨハン14世として即位。彼の息子である王太子オスカルの妃となったのはウジェーヌの長女ジョゼフィーヌ・マクシミリエンヌ・ウジェニー・ナポレオーヌである。

関連タグ編集

ナポレオン・ボナパルト

ジョセフィーヌ・ド・ボアルネ

オルタンス・ド・ボアルネ

関連記事

親記事

ナポレオン・ボナパルト なぽれおんぼなぱると

コメント

問題を報告

0/3000

編集可能な部分に問題がある場合について 記事本文などに問題がある場合、ご自身での調整をお願いいたします。
問題のある行動が繰り返される場合、対象ユーザーのプロフィールページ内の「問題を報告」からご連絡ください。

報告を送信しました

見出し単位で編集できるようになりました