事件の背景
幕府の外交方針に業を煮やした有馬新七ら薩摩の過激な尊王攘夷派の藩士たちが上洛、旅籠寺田屋に集結した。彼らは関白九条尚忠、京都所司代酒井忠義を殺害する計画を抱いていた。
上意討ち
島津久光が勅使を伴い幕政改革のため兵を率い上洛。過激派たちはこれを倒幕の挙兵と誤解。久光は剣術の使い手である大山綱良らの同藩士を寺田屋へ説得に向かわせ、聞き入れないならば斬るように命じた。
過激派は説得に耳を貸さず戦闘に至る。過激藩士8人、鎮撫側の藩士1人が戦死した(うち2人は重傷を負った後に切腹)。なかでも有馬は、捕方の巨漢に四つに組まれたところを、同志の橋口吉之丞に「おいごと刺せ!」と命じ、壮絶な死を遂げた。
薩摩の攘夷派を排除したことで京都における薩摩藩の評判は上がり久光は薩州大明神と称えられた。
闘死した9名には墓が建てられなかったが、後に西郷隆盛が建て墓碑名も彼が書いた。